鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
290/711

一方,文献上判明する院政期の九品来迎図は,その多くが平等院本と同様の本格的仏堂に描かれたものであり,特に九体阿弥陀堂にその大半の例が徴される。これは,当時の九体阿弥陀造像と九品来迎図の密接な関係を示す。これら文献に現れた堂内障壁画としての九品来迎図は,三形式に分類される(注1)。第一形式としては,ー大画面の観経変相図中の一部に表現されるものがある。これはその画面形式上,仏後壁画として描かれた場合が多かったと想像される。これにも二通りの形式が想定される。第一に,保延2年(1136)鳥羽勝光明院御堂仏後壁裏面壁画の「極柴九品髪像」が意味するであろう,当麻曼荼羅の如き善導系統の観経変相図に,その下縁なりに散善毅として三輩観を九品に開き九品来迎図を配置するもの。第二に,富貴寺大堂仏後壁表面壁画の阿弥陀浄土図に具現しているような浄土変の宝池壇に九品往生者が蓮華化生するというものである。こちらは,蓮華化生図というべきで,実質的に九品来迎図は表現されていなかったと見るべきである。第二形式としては,鶴林寺本のように,仏後壁といった一大画面を野筋雲水によって分節し小景の九品来迎図を散在させるものが考えられる。第三形式としては,九品の来迎を数大画面に分節して描くもので,その性質上,平等院本のような堂内四壁扉画である場合が多かったと考えられる。院政期盛行の九体阿弥陀堂にその記録を留めるものが多く,その原点となったのが寛仁4年(1020)の法成寺無量寿院である。が,鎌倉時代には,貴族階層の経済力の低下に伴いこの造立は激減し,九品来迎図も記録の上では絶無に近くなった。この史料上の現象をそのまま肯定して,鎌倉時代には九品来迎図は堂内障屏画としての生命を終え,衰退に向かったと考えられてきた。但し,院政期の九体阿弥陀堂は,強大なデスポットであった院の周辺の立願になるものが多く,その半公的な性格からも当然記録に留まりやすかったという事情がある。だから,そうした公的な大規模仏堂以外に九品来迎図が描かれていたことを考慮に加える必要があり,あくまで文献上の遺例は造形の一側面でしかない可能性が強い。そこで,こうした場以外に,九品来迎図が存立し得た場が存在していたかということが問われねばならない。そこで想到されるのが,貴族階層を中心とする浄土教信仰に係わる奥向の宗教生活-280-

元のページ  ../index.html#290

このブックを見る