を営む場として貴族達の各邸内に造立された持仏堂である。こうした持仏堂としての浄土教建築は,主に一間四面堂(方三間)と三間四面堂(方五間)か,規範性をもって後代まで継承された浄土教建築の一般的形式である。これらは,願主の私的な念誦堂又は持仏堂という性質を持ち,天台浄土教隆盛に伴い,貴族の来世的個人信仰の発達を背景として成立し,杜会の各層に展開した。その性質上,貴族の邸宅に付随して建てられる事が多く,所謂「住宅風仏堂」といわれる形態を生み出す重要な契機となった。この事実は,九品来迎図の様式と甑翻するものではない。よって,住宅風仏堂という12世紀には完成・成熟する場が,その数量的な面からも,九品来迎図を存立させる可能性の高かった場であろうことは,当然予想される。が,その私的な性格から記録に現れることはほとんどなく,こうした持仏堂形式下にあった九品来迎図の実態把握は困難であった。これが,通説の理解を生み出してきたのである。しかし,この形式下の九品来迎図が鎌倉時代を通じてなお相当描き続けられたと信ずべき証拠が,瀧上寺本である。瀧上寺本三幅は,各画面に押された色紙形銘と観経との対応から,上品上生・上品中生・下品中生と比定されてきた。が,上品中生図の色紙形残欠から,これが上品中生・上品下生を同時に表していたことが判明し,これで従来の九幅一具説が崩壊した。そこで,九品が九幅でないという変則的な構成は,建築の鋪設の一部である障子という画面上の制約から生じたと推測した。そうすると,瀧上寺本は数大画面に九品を描くという前節で分類したところの第三形式に該当し,三間四面平面を基調とする浄土教建築に使用された可能性が強くなる。そこで,建久5年(1194)8月16日供養の関白藤原兼実発願の無動寺大乗院阿弥陀堂を参考にすると〔図1〕,右から左へと,春から秋という四季の展開に沿って,上品から下品へと柱間三間に襖障子六面に,瀧上寺本は配置されたと考えられる〔図2〕。以上から,まず注意すべきは,第三形式の九品来迎図であっても,必ずしも九品九面という構成に束縛されず,場の性格に応じた流動的な構成をとると言う点である。これは,景を主体とする画面構成が許容したものである。次に注意すべきは,瀧上寺本が四方四季と反対の時間的展開を示す点である。これは,無動寺のように堂内の一面にしか配置されていなかったことが原因であり,四方-281 -
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