鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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四季に則る平等院本との比較で,その構成原理が平安時代以来継承されていたことを傍証する。最後に注意すべきは,寸法である。瀧上寺本の各幅の横幅は三尺強であり,これが無動寺と同じくほぼ柱間七尺規模の半間幅を示すと考えられる。そして,この柱間七尺は,当時の住宅建築の平均的な数値と考えられるのである。しかも,この無動寺大乗院阿弥陀堂は,故皇嘉門院の旧御所を移築したもので,当時の住宅風仏堂の典型である。こうした場こそ,九品来迎図が存立し得た場として想定する必要がある。そこで,川上貢氏の研究(注2)を応用して,その鎌倉時代における存続形態を具体的に観察しておく。亀山殿は,後嵯峨院が建長7年(1255)に新造移徒した御所で,大覚寺統に伝領された。正嘉2年に供養された「御持仏堂」,即ち大多勝院をみると,御所の西対に相当する位置にあり,その室内間仕切に障子が多数使用されていたらしく,住宅風仏堂の典型といえる。このような場で,阿弥陀が本尊とされた場合,その室内間仕切障子の多数の画面を飾るのに相応しい主題として九品来迎図が描かれた可能性は少なくないはずである。ちなみに,大覚寺統に対する持明院統の本所御所として伝領された持明院殿は,北白川女院藤原陳子が父藤原基家から相伝したことに始まる。併設されていた安楽光院御堂の草創は,基家の祖父基頼に始まり,その子通基が拡張し,大治5年(1130)に供養したものに端を発する。安楽光院御堂は,文和2年(1353)の持明院殿焼亡では免災し,その様子は『薩戒記』正長元年(1428)8月17日条からうかがえる。これは,九体阿弥陀を安置する七間四面堂で,同記に「仏壇井柱等皆摺貝,天井有金銅金物」とあり,この豪華な結構は,院の近臣であった藤原通基の構作であったとみるべきで,斯様な九体阿弥陀堂が鎌倉時代に衰退していったのは,既に指摘した。但し,絶滅したとは考え難く,例えば,天承元年(1131)に供養された鳥羽上皇御願鳥羽成菩提院阿弥陀堂は,白河上皇追善の為,その旧御所三条烏丸第の西対代を移築したものである。南面の七間四面孫庇付の九体阿弥陀堂ではあるが,中尊は半丈六仏で他の八体は等身仏と比較的小さく,住宅風仏堂といえる。これは,浄瑠璃寺九体阿弥陀堂と近縁関係をもち,小規模の九体阿弥陀堂が鎌倉時代も存続した可能性を示す。-282-

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