鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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間x三間の堂北に附属した北廊で構成される。堂は三間四面堂で,母屋の四周に一間また,伏見殿九体堂も重要な例である。伏見殿は,仁安2年(1167)の後白河院に始まる。問題となるのは,建治3年(1277)頃焼亡後に再建された時期である。ここの九体堂は,ここで正和2年(1313)に行われた伏見院の出家次第を記録した『伏見院御落筋記』に指図を残している〔図3〕。東面して建てられた五間x五間の堂と三の廂がまわり,母屋の奥に三間の来迎壁があり,その前の須弥壇上に九鉢の阿弥陀像が安置されていた。九体阿弥陀堂でありながら,所謂「九体阿弥陀堂」と異なる点が注意されるが,それ以上に注目されるのは廊との接続部分三間に襖障子六面が用いられている点であり,先の九体阿弥陀造像と九品来迎図との密接な関係,無動寺大乗院阿弥陀堂及び瀧上寺本の存在と対照する必要がある。廊は,普段は参籠所,控室として使用され,場合によっては,公家的儀式に要求される座を提供するものであり,伝統的形式の継承とされる。持仏堂の附属空間としての廊は,住居施設としてはやや本格性に欠けるが,早期から仏堂空間に併設されて住宅風仏堂の発展に貢献したのは,藤原実資の小野宮第内「念誦堂」の「東廊」が示している。このように,廊に限らず仏堂に附属空間を接続するのは,住宅風仏堂の特色と言え,その間仕切に障子等が存在したのである。これと同時に,建具の種類とその利用の増加は進展し,一層住宅風仏堂の展開に貢献したのである。以上のような阿弥陀堂を場として九品来迎図が描かれたのであろう。更に,伏見殿九体堂から,九体阿弥陀像を安置する堂宇に,三間四面堂という形式が存在していたことが判明し,九体阿弥陀造像と九品来迎図の密接な関係を念頭に置くと,九品来迎図が描かれていた描かれた場として想定可能で,これは既に院政期にも存在していた可能性が高い。但し,その他にも持仏堂の形態がある。寝殿造が小型化するにつれ,寝殿北面を実用性を本位とした奥向空間として利用する傾向が生じた。それに室内間仕切の発達が加わり,空間の機能分化が進み,持仏堂が寝殿北面に仏間的形態として吸収される場合もあった。15世紀前半の伏見宮御所がそのよい例で,この先駆的形式は,三条白川房にも見られ,鎌倉時代前期に潮る。が,この場合も,その間仕切に障子が活躍したことが前提である。持仏堂の需要は,貴族階級のみならず,僧侶階層を含めて周縁環境は広く,新興階-283 -

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