層ー武家・都市富裕階層など一の発展とともに新たな展開期を迎えるのであり,貴族文化の影響が存続し続けた鎌倉時代に,様々な形態を持ってこうした場が維持されたことは,九品米迎図存続の条件として考える必要がある。それでは,九品来迎図の衰退を,その存立し続けた場との関連で考える。その際に,亀泉集証によって『蔭涼軒日録』に記録された,文明17年(1485)に足利義政が東山山荘内に造営した阿弥陀如来を祀る持仏堂(東求堂)の障子十面の画題選定に関わる議論をモデルケースとして取り上げる〔図4〕。なぜなら,九品来迎がその議論の俎上に全く上ってこなかったからである。単純に十という画面数との不整合を強調するのか正しくないことは,既に論じた。むしろ,浄土教信仰下で持仏堂と強い絆を有する伝統的な九品来迎を主題として想定すらせず,十という数に固執した自由な選定が可能だった点が重要なのである。これは,前代の造形伝統の無視であり,そこに起こった事態を把握しておく必要があるはずである。また,かつて野地脩左氏(注3)は,東山殿は寝殿造の性格と密接に関係するとし,東求堂をその範疇で捉え得ると指摘し,その理由を,当時の武家が貴族を頂点とする強固な文化的ヒエラルキーを打破し得なかった点に求めている。ならば,どうして九品来迎図の伝統から解放されたのかが問われねばならない。そこで,東求堂障子十面の制作の経緯を確認すると(注4),文明18年2月におこった十楽への画題変更を巡る議論にみられる,「日本」より「唐」を重視する態度が注目される。これに,当初の+という数との単純な整合性のみを以て禅宗的な十牛図という主題が提起されたこと,更に筆様も「唐」様でなければならなかった事実も考える必要がある。これらの事実は,なぜ九品米迎図が描かれることはなかったのかという問いに対する解答でもある。既に瀧上寺本に平安時代の九品米迎図の伝統が受け継がれていることを示した。この事実は,九品来迎図が平安時代中期以来の価値観に支えられて存立してきたことを示す。その「和」という価値観がここでは大きく後退させられているのである。だから,その価値観が失墜した時,九品来迎図もまた歴史の舞台から消えていかざるを得ないはずであり,宋元の文化がその原因と想定される。そこでここでは,永仁6年(1298)の東征伝絵巻にみる建築様式の「和漢」の差異の強調の中のある一点に注意を促したい。すなわち,建具の形式の相違と,そこに描-284-
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