鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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つ。10世紀頃から建具としての使用が始まり,「障子戸」と称して区別されたが,12世紀かれる障屏画の様式が描き分けられている点である。「大和」では,障子といわれるもので,基本的に絹地に絵などを描いたものを枠に張り付けその周囲に縁とりを施し押縁を打ち付ける。一方,「唐」では,絹か紙の地に絵を描き,それを枠に張り付け押縁を打ち付けるという,今日の襖に近い形態をも障子は,元来紙や布を張った板面を意味しており,建具とは限らないものであった。以降はこれが「障子」と称されるまでに発達した。障子の形態は,材質と用法により区分されるが,布や紙が使用される場合「軟錦」といわれる幅広の縁とりが行われ,これは古代以来の形式に基づく。本論で九品来迎図の描かれた主な媒体として想定している鳥居障子(襖障子)は,10世紀には普及するに至ったとされ,大和絵がその背景に導入された時期と密接に係わっている点や,住宅風仏堂の動向に大きく影響を与えた点も注意される。その「軟錦」が消滅し,細縁の枠に変化するのに,僧侶階級が関与していたらしいのは,宋元文化摂取の先端的地位に彼らがあったことと無関係ではない。さらに,この変化の時期は,素材の変化(絹→紙),色紙形の消滅などとも考え合わせると,14世紀とされる。更に,東征伝絵巻では,「大和絵」=既存の青緑山水画,「唐絵」=水墨画の図式と,その媒体となる建築鋪設の構造の相違(障子の新1日の変化と対応)が相即しており,これは今後の文化動向の趨勢を反映する。だから,瀧上寺本は,九品来迎図を支えていた伝統的「和」の価値観が大きく揺らぐ直前に造られた九品来迎図の再終幕を飾るものと言えよう。そこで,その消滅条件たる「場」の変質に関して,改めて東求堂の問題に立ち返ってみる。これが寝殿造ならば,九品来迎図を描かないことに抵抗があったはずだからだ。そこで,再び川上貢氏の研究から,東求堂の性格を規定する。持仏堂など奥向宗教施設は,その種類やその配置の点で,東山殿は義満の室町殿以来の将軍御所の規範に則って造営されている。そして,この将軍御所奥向施設の造営規範となったのが,夢窓国師の西芳寺庭間宗教施設であり,それらがよく対応していることは既に指摘されている。よって,東求堂が,禅僧階級の宗教施設を擬装した性格を強めていることが-285-

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