注12年(1405)に造営した北小路第の「景総庵」である(注6)〔図5〕。これは,隠遁(2) 川上貢『日本中世住宅の研究』(墨水書房,1967年)(3) 野地脩左『日本中世住宅史研究』(丸善,1955年)分かる。但し,太田静六氏の研究(注5)から理解されるように,東求堂の建築も和様建築が基調となっているのは否定できない。が,太田氏は,書院造は寝殿造の直系ではあるが,附書院,棚,床ノ間,上段は寝殿造に源流を持たず,渡宋僧等により請来された中国形式の日本的翻案であり,これが書院造成立の基礎になったとも規定している。この場合は寝殿造からの変質の方を重視すべきで,東求堂の折衷様式は,武家が伝統的な文化的ヒエラルキーを打破し得なかった一方で,禅林と結び付いた「唐物」尊重の気風を推進したことの象徴でもある。「唐物数寄」の理念に律せられた空間内に,平安時代以米の「和」の理念と密着し過ぎていた九品来迎図の存在する必然性はなくなったのである。そこで,この持仏堂の変質が生じた時期が問題となるが,それは当然,西芳寺庭園の時代に帰納される。その当時の貴族階層の持仏堂を象徴するのが,山科教言が応永者の山里の草庵を擬装した建築とされ,前代迄の持仏堂の概念とは大きく異なり,九品来迎図の描かれる「場」として想定が困難である。九品来迎図は,平安時代中期以来の伝統的価値観に基づくものであり,それは阿弥陀堂建築と密接な係わりを持って成立・展開したのである。九品来迎図の画面形状・構成は適宜変更されたか,それは様々な場との関係で流動的なものであった。また,場に強く規制される特殊な主題であるため,場の変化とともに衰退したことが分かり,それは中世前期から後期へと移行する文化史上の動向と密接に関係していた。そのことは,様式の保守性と場の保守性が一致している点から傍証されるのである。(1) 大原嘉豊「瀧上寺本九品来迎図に関する考察一平安時代から鎌倉時代に至る九品米迎図の展開と関連して一」『佛教藝術』234号(毎日新聞杜,1997年)(4) 『蔭涼軒日録』文明十七年十月廿四日・廿五日・廿八日・廿九日,十一月二日・廿六日・廿八日,十二月六日・八日・十四日・十五日・十八日・廿四日・廿八-286-
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