⑳ パオロ・ジョーヴィオのコモの「Museo」1)ジョーヴィオの「Museo」1552)が晩年に生地コモの郊外に建設した「Museo」という名称をもつ建造物は,Museoを建設中である。(Museoは,)壮大な景観を享受することとなるであろう」fratello de! Zobio (=Giovio)」の所有になる「塔と庭をもつ家」と述べられている研究者:跡見学園女子大学短期大学部専任講師吉澤京子はじめに筆者は費財団の研究助成を受けて1997年8月に渡欧し,約1ヵ月,助成金申請の際に提出した研究計画に基づく調査を行った。この調査により,入手が極めて困難であった資料を目にすることかできる等,多くの知見を得ることができたことをここに報告し,貴財団に謝意を表するものである。以下は,今回の調査によって得ることのできた文献・写真資料,ならびに帰国後に入手した文献査料を通して現在まで得られた知見の概要をまとめたものである。i)ジョーヴィオによる肖像画収集の形成と「Museo」の建設ノチェラの司教で人文学者・歴史家として知られるパオロ・ジョーヴィオ(1483-ジョーヴィオ自身の『著名人の讃歌(初版1546年)』(注1)などの著作や手紙の中でしばしば言及されているほか,16世紀末の地図にも記載を見ることができる。ルネサンス期において収集した美術品を展示する独立した建物に「Museo」の語を用いた最も早い例とされるこの建造物についての最初の消息は,1537年秋ないしは翌年の春にジョーヴィオが書いた『Lariusad Franciscum Sfondratum』の記述である。「ボルゴ・ヴィーコから船出した者から見ると左手に,かつてプリニウスがその手紙の中で不滅の命を与えたところの,葉陰ゆたかなプラタナスの樹があったのだが,その場所に彼の思い出のために,そしてムーサイとアポロの名誉のために,私は私の(注2)。一方ジャノンチェッリによれば,コモ市の1537年の測量記録ではボルゴ・ヴィーコには「3件の家」かあると記載され,そのうちの一件が「Benedettoet ことから,この測量の時点では件の「Museo」の建設は始まったばかりであったろうという(注3)。1543年にジョーヴィオはトスカーナ大公コジモ・デ・メディチに宛てた手紙の中で「Museo」は九分通り出来上がっていると述べており,他方,同-290-
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