鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
301/711

年に「Museo」を訪問して6月22日付の手紙で館内の詳細なディスクリプションを行っているアントンフランチェスコ・ドーニによれば,建物の入口の上に「1543年」の記銘があったという(注4)。従って「Museo」の建設の時期は,1536年から1543年の間であったと推定できる。ジョーヴィオ自身の言葉では,上述のように「Museo」建設の動機の一つとして同郷人プリニウスヘの思い入れが挙げられているのであるが,それ以上に,彼がローマとフィレンツェの住居に集めていた有名人の肖像画コレクションを核とするさまざ‘まな収集品をまとめて展示する場を設けることが第一の関心事であったことに異論の余地は無い。1521年,ジョーヴィオはゴンザーガ家の秘書官であったマリオ・エクイコラに宛てた手紙の中で,彼が集めた文学者や詩人たちの肖像画に言及しつつ,それらの肖像画で自宅を飾りたいとの抱負を述べ,1549年のコジモ・デ・メディチ宛ての手紙では絵画を「30年以上を費やして集めた」と記している(注5)。これらの文献から1520年頃にすでにある程度のコレクションが形成されていたことが推測されるか,ただしこの時点ではまだ「Museo」の構想は発生していなかったらしい。ところでジョーヴィオは,いかなる方針で肖像画を集めたのだろうか。歴史上の著名人の姿を一堂に集めるというコンセプト自体に関しては,「著名人連作」というジャンルとしてかなり長い前史をもっていた(注6)。14世紀から15世紀にかけて形成されたそれらの「著名人連作」はしかしながら,多くの場合一つの部屋にめぐらされた壁画サイクルであったり,あるいは板に描かれたものである場合でも羽目板のように建物に組み込まれたものであった。ジョーヴィオの場合は,コンセプトとしては「著名人連作」の伝統を受け継ぎながらも,従来のそれと大きく相違するのは,第一に,描かれる対象の選択が,従来のものでは例えばペトラルカなどの文学的源泉に基づいて行われている,端的に言えば図像プログラムが先行しているものが多かったのとは対照的に,ジョーヴィオの場合は,能うる限り多様な著名人の肖像を,言わば百科全書的に収集することに関心が向けられていた点,第二に収集品が全てタブローであった点である。建物に組み込まれないタブローの特性が,収集点数の飛躍的増大という結果をもたらしたとも考えられるだろう。彼の没年までに,肖像画の数は400点近くになっていたとも言われている。それらの肖像画の多くは,壁画,墓碑,メダルなど既存の肖像画からのコピーであり,一部だけが同時代の人物からのオリジナルの肖像画であった。-291-

元のページ  ../index.html#301

このブックを見る