鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
305/711

注3)「Museo」と標章図について「Museo」を当初から装飾していたもう一つの要素として標章図(impresa)と銘文(epigramma)があったことは,前出のアントンフランチェスコ・ドーニの手紙のな「Museo」における多種多様な標章図の存在の意味はなお追求する価値のあるものとPauli Iovii Opera, Tomus Vlll, Roma 1972. ミュンツはこれらの他に『著名人の讃歌』には名前が挙がっていない何人かの芸術家の肖像画が「Museo」に存在したはずであると指摘し,ミケランジェロ,レオナルド,アンドレア・デル・サルトらの名を挙げている。実際,ウフィツィ美術館所蔵のデラルティッシモによる模写の中にはレオナルドの肖像画が現存している。当然のことながら,ミュンツの調査と分類にはその後に発見された「Museo」の生き残りの肖像画は含まれておらず,内容の再検討が必要なことは言うまでもない。かに記述があり,コモでジョーヴィオが『戦いと愛の標章についての対話』を書き上げたことも考えあわせると見過ごすことができない。ドーニは,アトリウムの四つの壁に,ナポリ王フェデリーコ,フェランディーノ,デル・ヴァスト侯爵夫人,ナポリ王アルフォンソの標章図がモットーとともに(フレスコ画として)描かれているのを見たと述べている(注15)。一方,先に挙げた1619年の年記をもつ《景観図》〔図2〕には27点の標章図がモットーとともに描かれており,それらは殆どがジョーヴィオの『戦いと愛の標章についての対話』で最初に挿絵が施されたリヨン版(注16)の挿絵をもとにしたものと見受けられる。この絵には銘文も随所にちりばめられているが,それらは前出のドーニが記述したものと全く対応しているのに対し,標章図でドーニの記述と重なるものはデル・ヴァスト侯爵夫人の標章のみである。画中の他の標章図がいかなる理由で選ばれたのかについては,現在までの調査では解明することができなかった。標章図が建物の装飾として用いられる場合,その建物(ないし,内装工事)の施主またはそれにきわめて近い人物の標章が施されるケースが一般的であるが,思われ,「Museo」の肖像画収集の実態の解明とともに,今後の課題としたい。(1) Giovio, P., Gli Elogi degli Uomini Illustri, a cura di Renzo Meregazzi, in : -295-

元のページ  ../index.html#305

このブックを見る