の作品と考えてよいだろう。耳の形状や膝の厚みや肩の張りなどの体躯の比例が異なることから,同一仏師の制作とは考えにくいが,両者ともに衣文線をやや浅く彫出し,袈裟を左肩に浅くかける点や,脚部に独特の衣文をあらわさないこと,あるいは地蔵菩薩像の体躯がやや細身であることなど,1340年ころには既に確立し,以後は強い規範性をもったと考えられている院吉・院広の作風より古様である(注3)。ただし,このような作風は康安二年(1362)の愛媛宗昌寺の院什作文殊菩薩像などにもみられ,一概に制作年代がさかのほ‘るとはいえない。むしろ,1釈迦如来像や2地蔵菩薩像の制作には,旧様を得意とした古参仏師があたったと想定したはうがよいのかもしれない。制作地についての手掛かりを求めると,まず,2地蔵菩薩像が転用材を用いていることが注目される。条件の整った畿内の仏所で制作され,高城寺へ奉渡されたことは考えにくい。また,3伝観音菩薩像の頭部の構造も目を引く。後頭部を上下に割り矧ぐことは,そこから納入品を奉籠したことが推測されている(注4)。内部を焼いて炭化させていることは,奉籠にともなって像内を焼ききよめたとも考えられる。奉籠は宗教的な行為であり,寺院側によって行われたであろうことは想像に難くない。2地蔵菩薩像の用材と3伝観音菩薩像の納入品奉籠の可能性,この二点から,高城寺の仏像が現地で制作された可能性は高い。高城寺の諸仏について,ー四世紀なかばころの院派仏師の作品であり,現地での制作であろうことを指摘した。つぎに造立にいたる具体的な事情を探ることとする。二肥前高城寺高城寺には,中世文書を中核とした一0三通の文書が伝えられていて,佐賀県重要文化財に指定されている。そのうち,弘安八年(1285)の「肥前国守護北条為時(時定)書状」には,高城寺の建立は,在地領主国分忠俊(尊光)ならびに高木進西らの寄進により,北条時頼と時宗の追善供養のためになされたことが述べられている(注から,このころには仏像,堂舎ともに整っていたであろう。近世の史料である「光欽覚書」によれば創建の年は文永七年(1270)であるといい(注6)'文永八年(1271)には国分忠俊らによる寺領の寄進が確認される(注7)。しかし,開山の蔵山順空の入寺は文永十年(1273)ころのようで,伽藍の整備もこれ以後になされたようである5)。同文書に「凡当寺は仏法興行之霊地,禅宗繁昌之道場也」と記されていること―-21 -
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