鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
310/711

⑰ 冷泉為恭とその画業に関する研究一為恭における復古意識と古典学習を中心に一一研究者:学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程菅原真弓はじめに一幕末・明治絵画研究への視点日本絵画における「近代」の幕開けは,どこに置くのが妥当なのであろうか。従来の「日本美術史」が行なってきたように,鑑画会などフェノロサの提唱する新しい日本絵画の創造運動を端緒とし,明治二十二年(1889)の東京美術学校の開校を以て近代とするのが妥当なのか。しかしそれでは,幕府の洋学研究機関であった蛮書調所を母胎として西洋画法を研究した画家川上冬崖(1828■81)や,冬崖に指導を受けた高橋由ー(1828■94)の存在が,本来ならば近代の範疇から外れてしまうはずである。また明治という新時代を同時に生きた画家でも,ある画家は江戸期の「絵師」の生き残りとして扱われ,ある画家は新時代を象徴する「画家」として高く評価されてきた。何故なのだろうか。どうもそれは,明治に入ってから導入された「美術」の定義に当てはまるか否かという点に根拠があるようである。近年,北澤憲昭氏や佐藤道信氏によって「美術」や「美術史」,「日本美術」といった言葉の意味や由来,その言葉が背負わされたものについての積極的な検討が行われている(注1)。北澤氏らの指摘されるところをまとめれば,現在の私たちが行なっている「美術史」そのものが外来のものであり,西欧の強い影響下に生まれた事が理解される。「日本美術史」の初めての講義は東京美術学校で岡倉天心によって行なわれた。これは彼ら美術行政に携わる者たちが定義した日本の「美術」の歴史を説いたものであって,その中心はフェノロサが強く提唱した狩野派であり,あるいはやまと絵であり円山四条派であった。当世風俗を映す浮世絵や,胸中の感興を描出する文人画は意図的に排除されている。日本「美術」の定義の根拠は,極論するならば異国人フェノロサが理解できるかどうか,にあったと言える。そして,国際的な理解を得られるかどうかを問題とするのは,突然世界に窓を開いた当時の日本においては,「美術」のみならずすべてに共通した視点でもあった。佐藤道信氏は以下のように述べている。新時代の美術は,「日本的」であると同時に「国際的」であることが求められた-300 -

元のページ  ../index.html#310

このブックを見る