のである。それは近代国家としての日本が目指した国家像そのものだった(注2)。明治新国家の理念は「王政復古」という言葉と「文明開化」という言葉を以て表されるように,いにしえに帰る事と制度を含めた新しい文物を取り入れるという両面が併存していた(注3)。しかしその帰るべきいにしえは無論江戸ではなく,天皇親政による政治形態であった昔であり,さらには天皇の歴史的権威を裏付ける為に太古一神話時代ーにまで遡った。江戸という時代を強烈に否定する事で明治新国家は成立しており,当時の現代美術に向けられた視線にもその理念は当然導入された。したがって江戸以来の伝統を色濃く残すものは意図的に無視されている。前述した川上冬崖や高橋由ーといった洋画家は,幕末から明治へという過渡期を生きたにもかかわらず,油絵の具にカンヴァスという新しいマテリアルゆえに近代の画家として扱われてきたように思われる。本年は明治と改元されてから百三十年目にあたり,東京美術学校開校からはほぼ百十年を数える。しかし,作られた当初の美術史における価値観は今なお部分的に継続しているように思える。東京美術学校開校と同じ明治二十二年に創刊された雑誌『国華』は,日本最古の日本東洋古美術に関する雑誌である事は周知の事実であるが,ここに文人画に関する論考が掲載されることはあっても,浮世絵,とりわけ浮世絵版画を取り上げた研究論文がおさめられた例は数えるほどしかない。また創刊以降に制作されたいわゆる近代美術についても,美術史学が厳密にアカデミックな学問として形を整えていく途上で,「純粋に美術史研究の対象となり得る十分な條件にいまだ熟していない」(注4)との瀧精ー主幹の判断によって,掲載から外された。以来,近代美術が初めて『国華』に取り上げられたのは,創刊百年余を経過した平成三年になってからのことである(注5)。ましてや江戸から明治へという時代の転換期に位置し,なおかつ前述した美術史の価値観にあてはまらない絵画についてはほとんど顧みられることもなく,したがって取り上げられることもなかった。戦後の日本美術史研究においては,近世ーとりわけ江戸一絵画に関する研究が活発化した。江戸絵画研究の先学として,『琳派絵画全集』(注6)の編著など琳派を中心とした近世絵画研究を行なってこられた山根有三氏の業績は偉大であり,また江戸絵画の通史,各論をまとめた小林忠氏『江戸絵画史論』(注7)は,まさに画期的な著-301-
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