鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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古典研究から後に皇国思想へと発展し,明治期の国家神道の基となる復古神道を確立した国学の興隆(注13)がその代表的な事象であると言えるだろう。絵画においては,例えば松平定信による『集古十種』や『古画類衆』の編纂,あるいはやはり定信の命による「石山寺縁起絵巻」巻第六,第七の補作(注14)事業,奥絵師木挽町狩野家の当主であった狩野晴川院養信の筆になる膨大な数の絵巻の摸本類の存在(注15),または酒井抱ーによる光琳顕彰と江戸琳派の確立(注16)といった一連の事象は,いずれも十八世紀後半から十九世紀における復古思潮を背景に為されたものといってよいだろう。であるならばこれらをもって日本絵画における近代の幕開けとしても差し支えないのではあるまいか。このような時代区分論の立場に立つならば,幕末・明治絵画の様相は,これまでとはかなり色調を違えて見えてくるはずである。嘉永六年(1853)のペリー来航は以後の日本に過激な国家意識の高揚をもたらし,ついには明治という新しい国家を形成させた。このような時代の中で,幕末・明治絵画には十八世紀後半以降の復古思潮を継承しながらもより強い歴史意識の発露が見られるようになり,ついには政治的な色彩(ナショナリズム)さえも帯びていくこととなったのだ,と私は考えている。本報告書では,これまで述べてきた時代区分論の立場に立ち,幕末期の京で活躍した画家冷泉為恭について検討していく事にする。ー.冷泉為恭と復古大和絵に関する研究史復古大和絵は,幕末において復古を旨とした作品群として理解され,それらを描いた画家達を復古大和絵派と呼んでいる。冷泉為恭(1823■64)は,この復古大和絵派を代表する画家として知られているが,しかしこれは厳密な意味では画派とは呼べず,むしろ尾張の画家田中訥言と訥言に師事した浮田一葱,そして為恭といった個々の画家たちによるやまと絵復興を目指した絵画制作と定義づけることが最も適切であろうかと思われる。復古大和絵(復古大和絵派)について論及した最初の文献は,藤岡作太郎『近世絵画史』(注17)である。藤岡作太郎はまず,国学の興隆や,水戸史学との関係など学問の分野における復古の様相を説き,「尊王愛国の思想を発揚するに至らしめぬ」と時代背景をまとめる(注18)。そして尊王という政治的思想によって「かくてここに後世の土佐派を離れ,別に古土佐を規摸として画道の復古を唱ふる一派は生じぬ」(注-303-

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