鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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22)がもっとも古い。19)と,復古大和絵が生まれたのだと説明している。しかしここでは「復古大和絵」という名称は登場しない。為恭個人については,古くは日本画家の吉川霊華(注20)や,為恭がその若い晩年に住まいした粉河寺の住職逸木盛照氏が,伝記事項の確認と代表的な作品の紹介を行っている(注21)。また作品の図版化という点では,『田米知佳画集』(昭和四年)(注為恭を代表とする一群の画家たちに対して復古大和絵という名称が冠せられ,かつ顕彰がおこなわれるに到るのは,日中戦争が開始された昭和六年の事である。『復古大和絵集』(注23)が刊行物としての名称の初出であると思われる。そして戦時下の国威発揚を旨とする時代背景のもとで,戦前の復古大和絵研究は,個々の作品や様式の検討よりも,とかく思想や政治活動に視点をおき「勤皇の画家」として必要以上に顕彰して論じてきたように思われる。中でも冷泉為恭については,その死が過熱する政治状況のさなかでの暗殺であったという極めて劇的な事実が,とりわけその傾向を強くしたと言える。これは,安政の大獄に連座してその生涯を閉じた浮田一葱にも同様の事が言える。そしてそのような研究への視線は,彼ら復古大和絵派の画家たちの共通する様式一古典学習と創造ーに関しても,不必要な色づけを行ってきたように思われる(注24)。復古,あるいは古典復興という,当時において普遍的な状況の中に生まれた絵画運動を,単に京という地域に限定した政治活動としてとらえてしまったからである。しかし一方戦後の研究においては,中村渓男氏の一連の為恭研究(注25)に見られるように,今度はことさらに画家の生きた時代背景や思想性,政治色を等閑視する論調が強いように思われる。このような戦前と戦後の全く対照的とも言える研究論調は,歴史に対する価値観の変化によって導き出されたものであると考えられる。たとえば,復古大和絵の画家たちとほぼ年代を同じくする画家菊池容斎に関しても同様の特徴が見られる。歴代の天皇に忠義を尽くした人物を取り上げて肖像化した著作『前賢故実』を明治天皇に献上し,「日本蜜士」の称号を授けられたという(注26)菊池容斎は,十五年戦争当時「勤皇画家」として大いに顕彰された。しかし戦後は容斎研究そのものが殆どなされることなく,ようやく近年,積極的に評価される(注27)に到っている。「はじめに」の項でも少し触れたように,幕末・明治の画家たちの中には,ある者は-304-

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