鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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無視され,ある者一復古大和絵派の画家や菊池容斎などーは戦前ことさらに顕彰された為に,戦後は本来の画業を評価する研究があまりなされない,といった不幸な研究史を持つ画家が少なくない。しかし彼ら幕末・明治の画家たちを,現代の視点によって再検討し,日本美術史の中に正当に位置づけ再評価を行うべきであろう。そこでまず,冷泉為恭と復古大和絵に関する研究史を踏まえた上で,為恭の復古志向がどのような要因から生み出されていったのかを,主として伝記事項の中から探っていくこととする。二.為恭における復古意識ー出自と人間関係から一復古大和絵派と呼ばれる画家の共通点としては,有職故実の研究や古い絵巻を中心とする古画の摸写による学習方法,そしてそれぞれの作品に現れた古典やまと絵への傾倒を挙げる事が出来る。また復古大和絵派の興った要因としては,先に示した藤岡作太郎『近世絵画史』以来,国学の興隆など当時の復古思潮と,画家個人の資質に起因するものとする論調が踏襲されてきた。為恭に関する研究ではその傾向が最も顕著であり,彼の復古意識は個人的志向にのみ基づくとする論調が多く見られる。最大公約数的に要約するなら,狩野派の家に生まれながら家業の画風にあきたらず,自ら古絵巻の摸写を中心にした独学によるやまと絵学習を経て,やまと絵の復興による自らの新様式を確立した画家とされてきた。現在まで踏襲されてきたこの指摘はある面では妥当であるが,しかし近世絵画研究の近年の動向や新知見を考えるならば,はなはだ疑問な点も多い。本項では為恭の出自や人間関係など伝記事項を改めて現在の視点で検討し,為恭の復古意識の一端を明らかにしたい。為恭の伝記事項に関する資料として,為恭の略年譜【資料】を提示する。これは,主に逸木盛照氏の『冷泉為恭』(注28)に載る記述と,中村渓男氏による「冷泉為恭年譜」(注29)を基に作成したものである。【資料】によれば,冷泉為恭は京狩野家の絵師狩野永泰の三男として,文政六年(1823)九月十七日,京に生まれている。父の永泰の伝記は詳らかでないが,京狩野の九代目にあたる狩野永岳(1790■1867)の弟にあたると言われ,ここで為恭の出自が明らかになる。また現在,為恭は一般的に「冷泉為恭」として周知されているが,冷泉という画姓は,為恭の母が一時冷泉家に仕えていたことから自ら名乗ったものであるとされている。為恭の若描きの作品には「冷泉三郎為恭」の款記を持つものが存在し,冷泉の名-305-

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