鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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作の全容は未だ明らかではないが,例えば金比羅宮に現存する「法然上人~をは乗りを裏付ける。また,嘉永三年(1850)には官人岡田出雲守の養子となって蔵人所衆の役についており,岡田家の家紋が梅鉢であったことから新たに画姓「菅原」を名乗ったという。「冷泉」や菅公菅原道真を意識した「菅原」姓の名乗りは,貴族階級への強い憧れを感じさせる。しかし一方,積極的に古典絵画の摸写を行っていた事実もまた【資料】より明らかになる。代表的な摸写による作例として天保十二年(1841)の「春日権現験記絵巻」,弘化元年(1844)の「法然上人絵伝」を掲載した。逸木氏や中村渓男氏によれば,「法然上人絵伝」全四八巻の摸写は三度行なわれたとされる。為恭による摸本制じめ,膨大な数の作例(注30)から熱心な絵巻研究の跡を確認できる。さらに為恭をめぐる人間関係を見てみると,三条実美の父である三条実蔦や,関白九条尚忠,また狩野晴川院養信などとの関係が散見される。中でも三条実萬との関係は深く,内裏の炎上に伴う安政内裏造営(安政二年ー1855-)に際しては,実萬の推挙によって,小御所北廂(きたひさし)という小さなスペースではあるが襖絵制作に従事する事になったと伝えられる(注31)。また,岡崎にある将軍家ゆかりの寺である大樹寺の障壁画制作も実萬の推挙によるものであるとされている。しかしこれについても障壁画群についての論考(注32)は存在するものの,三条実萬との関係を示唆する資料の提示はなされていない。『三条家文書』の中におさめられた「忠成公幽居日記」(注33)には,為恭の筆になる王陽明像に実萬自身が賛を記したとの記述が見られ,これが安政六年(1859)四月であることから,この時期には実萬と為恭との間にある程度近しい関係があったことが類推できるが,それ以外の記述は見られない。関白九条尚忠との関係については,安政三年(1856)八月に九条尚忠つきの関白直菌預になっていること,同六年には九条尚忠の使として金比羅宮へ赴いていることが指摘されており(注34),親しく仕えたものと推察される。九条家との関係については為恭の出自も関係していると思われ,これについては後述する。狩野晴川院養信は,為恭に「年中行事図巻」(天保十四年ー1843-)の作画依頼を行なった注文主である。先にも述べたように晴川院は,木挽町狩野家第九代当主で,当時御用絵師筆頭として一門を率いていた存在であった。この画家の存在は,長らく等閑視されてきた江戸期の狩野派再評価(注35)のきっかけとなった。晴川院は御用-306-

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