鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
317/711

絵師の在任期間に江戸城西の丸(天保九年ー1838ー),同本丸(天保十五年ー1844-)の再建に携わり,障壁画を制作しているが,この障壁画の小下絵群の発見(注36)と,先に触れた,晴川院とその門弟が遺した膨大な数の絵巻の摸本の存在(注37),それに加えて晴川院が奥絵師としての公務の内容を自筆で綴った「公用H記」の存在が紹介される(注38)に及んで,狩野派研究はいよいよ活気を見せ始めている。近年の研究において明らかにされた点は,これまで顧みられなかったこの画派の意外に多彩な画業の様相であり,狩野晴川院の祖父養川惟信(1753■1808)や父伊川栄信(1775■1828)等,主として木挽町狩野家の画家たちによる積極的な大和絵学習であった。小林忠氏は,狩野晴川院を江戸において大和絵復興を行った画家として評価すべきであると指摘(注39)し,また安村敏信氏は,現在まで比較的目に触れる機会の少なかった狩野派の画家の作品を紹介し,かつ因習打破,画風刷新を目指した画業の再評価を行っている(注40)。このような近年の江戸狩野派研究の成果をふまえるならば,為恭の復古意識を単に画家自身の個人的な志向にのみ求める事には疑問を呈さざるを得ない。それでは為恭の出自である京狩野についてはどうだろうか。先にも記したように,為恭の父永泰はこの京狩野の九代目にあたる永岳(1790■1867)の弟にあたり,為恭は永岳の甥という事になる。狩野派には,幕府と諸藩のお抱え絵師として武家をパトロンとした画派,また謹厳な筆致による漢画画風の画派というイメージが一般には定着している。そうした狩野派イメージが近年変化しつつある事は既に記したが,中でも京狩野は,京という地域的環境ゆえに,宮中をはじめ公家や杜寺,町家など幅広い層をその支持基盤としてきた。宮中の正式な御用絵師としては,絵所預を務める土佐派があるが,江戸中期以降の宮中御用は土佐家のみが承るものではなく,鶴沢派であるとか,例えば円山応挙といった町絵師も起用されているという(注41)。京狩野もまた宮中御用を務めており,同じく御用を務める鶴沢派や土佐派と協調関係にあった事実が既に指摘されている(注42)。したがって京狩野の画風についても,必ずしも山楽・山雪以来の伝統的画風というよりは,京という地域での相互影響によって変化を遂げ,融和していったと考えるのが妥当であろう。為恭の父である永泰の作品については残念ながら未見であるが,中村渓男氏によればやまと絵風のものであったと言う(注43)。また叔父にあたる永岳は,山雪の画風を復活させた画家として評価(注44)されているが,『日本画家辞典』(注45)の記述には「四条風の筆意を雑へて家格-307-

元のページ  ../index.html#317

このブックを見る