なおかいささのや(1) 古絵巻の摸写を変ず」とあり,現存作品にも例えば鶴沢派を思わせる作品や大和絵風の作湿Iが存在するなど,他派からの影響と融和がなされていた事が理解される。次に京狩野,とりわけ為恭の叔父永岳をめぐる人的交流について考えてみる。武田恒夫氏によれば,永岳は関白九条尚忠の知己を受けて,明和六年(1769)以来免ぜられていた九条家の御用を,文政六年(1823)に再び務めるようになり,また彦根藩主井伊家の御抱絵師にも起用されているといい(注46),公家,武家を問わない幅広い支持層を獲得していたという。このような京狩野の特質,そして為恭と直接つながりのあった狩野永岳をめぐる人的交流を考え併せるならば,為恭の復古志向の要因は出自にも求められるのではないだろうか。先に記した江戸における狩野派,とりわけ為恭との関係が指摘される晴川院養信の家である木挽町狩野家の動向,そして宮中御用を務めていた京狩野家と叔父狩野永岳の人的交流を考慮に入れると,為恭の復古志向,そしてやまと絵復興という動きは,人的交流と出自にその答えの一つを求める事が可能なのではないだろうか。「はじめに」の項でも記したように,為恭の生きた一九世紀当時における復古思潮は,学問分野においても,為政者側の政治理念においても,そして美術界においても普遍的な動向であった。為恭の復古大和絵は,このような時代風潮と京狩野家に生まれたという出自,そして個人的な志向という三つの要因から生まれたものと言えるだろう。家業である狩野派の画風にあきたらず,ではなく,狩野派からの発展と継承の上に為恭の復古意識が芽生え,そして復古大和絵様式が確立すると言い換える事が出来ると私は考えている。三.為恭の古典学習ー作品に基づいて先にも述べたように,為恭はやまと絵研究にあたって多くの古絵巻を摸写した事が知られている。現存する多くの絵巻の摸本類がその事実を物語るが,また為恭在世当時に記された記録からも熱心な絵巻学習の様子が見て取れる。西田直養の随筆『筏舎漫筆』(注47)の「国画復古」の項には,為恭の摸写した多数の絵巻のタイトルと,為恭に関する次のような評価が記される。応天門画巻(「伴大納言絵巻」)をはじめ,法然画伝等にいたるまで,其くはしき-308-
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