つ。こと,衣服,調度,家居,人事はさらなり。一草,ー木にいたるまで,すべて精神をこめて観たることなれば,この屋根障子は春日験記にあり。この器物衣冠は年中行事にあり。この松桜は一遍上人,この菫萩は加茂祭など,衣冠,装束,甲冑,刀剣,馬具,船車の類にいたるまで,これはあの巻物,あれはこの画詞と,すべて暗記ならざるはなし。(略)北人傑出したれば,和画再び起りて,地におちざるべし。この随筆が表された天保十年(1839)には為恭は若干十七歳であったにもかかわらず,既に八十タイトルもの絵巻の摸写を行ない,かつ学習消化していたとあり,これに多分に誇張があったとしても,為恭が若年より熱心に絵巻研究を行っていた事実は理解される。またこの記述からは,為恭が古絵巻の摸写を通じて自らの画嚢を肥やす一言い換えるならば画像データベースの構築ーと,故実一例えば儀式の執り行われ方,装束の約束事,建物や調度のしつらえーを視覚でとらえるという二面を学んだという事も理解されよう。ここで現存する為恭の摸本を挙げるならば,下記の絵巻が主なものと言えるだろ・「法然上人絵伝」先にも記したように,多くの絵巻の摸写を手掛けた為恭が,最も熱心に,複数回(三回(注48))摸写をしたとされているのが,知恩院本「法然上人絵伝」である。現存する金比羅宮所蔵の摸本の制作は弘化元年(1844)以降と思われ,現在は「法然絵伝冷泉為恭摸」と墨書きされた見返しがつけられている。・「春日権現験記絵巻」同じく金比羅宮に摸本が現存する。後で述べるように,為恭はこの絵巻から最も多くを学んでいるが,彩色を施した詳細な摸写をおこなっている。・「伴大納言絵巻」為恭は,この平安後期の絵巻の傑作を殊の外研究対象として重要視していたようで,【資料】の天保十二年(1841)の項にもある通り,この時期には既に田中訥言摸写によると思われる摸本を入手していたとされている。中村渓男氏の紹介された部分摸写(注49)は,当時京都所司代を務めていた酒井若ママ)内は引用者による補足-309 -
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