(注8)。以上の経緯から推測して,高城寺の当初の仏像は文永十年から弘安八年の間に制作されたと考えてよいだろう(注9)。しかし,すでに述べたとおり,現存する高城寺の諸仏は一四世紀なかばころの作風をしめしている。この間の事情を記す重要な史料が「征西将軍宮懐良親王令旨」である(注10)。正平七年(1352)のこの文書は高城寺が凶徒のために焼失し,その再興のために発給されたものである。高城寺の当初の安置仏は正平ころに焼失したのであり,現存の諸仏は,正平七年をあまり下らないころに再興されたとすれば作風との副翻はない。正平以前に制作された蔵山順空像については,諸仏とは別の開山堂に安置されていたと考えるのか自然で,唯一焼失をまぬがれたとしても不思議ではないであろう。三九州の院派おわりに,九州周辺域に伝存する院派の作品を通覧し,そのなかにおける高城寺諸仏の位置をさぐることとする。九州周辺域の南北朝〜室町時代の院派様式の作品は,これまで38件が確認された(注11)く資料〉。仏師としては,院什,院口,院隆,院徳の名が知られる。院什は院吉の子,院口は院什の子と推測されるが,他の三人がこの系譜とどのように関わるのかはあきらかではない(注12)。院徳については,博多猪熊仏師の祖であることが指摘されている(注13)。活動の時期は,院什の正平一七年(1362)と康安二年(1362)と応安二年(1374)から,院口の正平二五年(1370),印惇の文安元年(1444),院隆の文安二年(1445),院徳の文亀3年(1503)にいたるまで,ー四〜一六世紀を通じて確認される。南朝,北朝年号ともにみられることに留意すべきであろう。作品の所在は九州全域にわたり,宮崎県高千穂町の龍泉寺の千手観音・不動・毘沙門像のように,あきらかに天台系の造像がみられることも注日される。時代,地域,政治,宗派の枠をこえた活動がみられる九州の院派は,北朝足利幕府と結んで五山派の臨済の禅寺を中心に活躍した仏師であるという,これまで主流をなしていた認識の中だけでは捉えきれない。より複眼的でひろい視野を要求するものである。その点において,関東の事例は興味深い。田中恵氏は,関東での院派の活動について,林下の禅僧との関係を指摘され,そこから潮って足利氏と院派の結びつきについても,禅僧の介在を予測されている(注14)。もとより,足利氏の宗教政策につ-22 -
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