鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
33/711

永明院に安置される伝大道ー以像は,像心束•前後束を彫りのこす構造や裳先や左袖年5月)注いては,夢窓疎石など禅僧が深くかかわっていたことは周知のことであり,利生塔の設置などにあたっては旧仏教系寺院との接点も生じた(注15)。そのような状況のなかでは,僧侶(寺院)が主導して院派仏師を起用し,結果として南朝方や旧仏教系寺院での造像がおこなわれることは当然ありうることである。九州と関東の多様な様相は,個々の事例の検討をもとにした,院派の実相の再構築を要求するものである。では,ひるがえって高城寺の場合はどうであろうか。蔵山順空の墓所がある東福寺垂下部の衣文などに栃木宝蔵寺の普応国師像や千葉東光寺の僧形像など院広の作品と共通する点がみられることから,ー四世紀なかばころの院派による造像とみて間違いない(注16)。蔵山順空の法嗣雲山が開いた薩摩感応寺の本尊千手観音菩薩像は文安二年(1445)に院隆によりつくられている。また,高城寺に隣接し,同じ国分氏を外護者とする曹洞の禅寺玉林寺や感応寺にちかい宮之城町に院派作品が伝存することも無視できない(注17)。本山東福寺から地方中核寺院高城寺へ,さらにその末寺へと,教線の拡大とともに院派仏師の活動がひろがり,さらに共通の外護者などを通じて周辺地域の他派寺院へまで及んだことが想像されるからである。九州に伝存する院派仏師の作品は多く,南北朝から室町時代にかけての彫刻史を席巻した観がある。これは九州のみに限られたことではなく,院派仏師の研究は日本中世彫刻史における一つの基軸をなしている。そのような中で,地方における院派仏師の活動拡大の具体的な様相をあきらかにする一例として,高城寺諸仏は注目すべき存在といえるだろう。(1) 松島健「円鑑禅師の痔像と遺像」(『佛教藝術』181号1988年11月)志佐憚彦「佐賀・高城寺蔵木造円鑑禅師坐像奉籠物」(『佛教藝術』166号1986 蔵山順空像(円鑑禅師)像高(座高)85.5檜材。寄木造り。割首。台形の木口材を用い,頭・体幹部は八材,体側部は左右各二材,膝前は三材を矧ぎ寄せる。背面と膝前地付部に小材を補う。裳先全面二材,左右各一材。-23 -

元のページ  ../index.html#33

このブックを見る