鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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<唐三彩が完成する。中国陶磁にはこの低火度鉛釉のほかに,木の灰を主成分とし,1200度程の火度で熔ける高火度釉がある。青磁や白磁を生み出すこの釉薬は,中国陶磁発展の基礎ともいえる釉薬である。そして唐三彩の影響を受けて,この高火度釉においても釉薬のかけ分け手法が行われるようになる。唐三彩と同じ生産地で高火度釉のかけ分けが行われていることで,その影響関係は確認できる(注2)。この釉薬のかけ分け手法が唐時代の青花とされる資料を解く鍵になると思う。つまり元時代に完成する青花のような釉下彩技法によるものではなく,藍釉を用いて文様を描き,透明釉を,かけ分けるような意識で,施したものと考えられるのである。中晩唐から宋時代にかけて,青磁や黄釉などに鉄絵を描くことも行われるが,これもその発想の起点には釉薬のかけ分け手法があると思う。したがって唐時代の青花と称する作品は,釉下彩の始まりとみるよりは,釉薬のかけ分け手法の延長上にあるもので,釉薬を用いて絵筆で具体的な文様をあらわしたという点で,単に釉薬のかけ分けによって生じる班文や,幾何学的な文様をあらわしただけの唐三彩と比べると,その手法の発展した姿を示すものとみるべきであろう。同じく中晩唐期に湖南省の長沙窯で盛んに焼造され,東南アジアやイスラム圏などへ運ばれた筆描文様の作品も,この手法を基礎とするものである。まだこの9世紀頃の段階では,釉下彩技法が創始される筋道がたどれない。そして何よりも景徳鎮において青花が完成され,盛行する14世紀までの時間の隔たりを埋めうる資料はえられていないのである。釉下彩技法は,華北の磁州窯と華南の吉州窯において,一つの技法として定着したと考えられる。磁州窯では黒化粧を掻き落として文様をあらわし,その上に透明釉をかけて焼成する手法が起こり,それをより簡便にあらわす手法として釉下彩の鉄絵が行われるようになる。磁州窯では金時代の12世紀に一般化し,吉州窯では金時代と並行する南宋時代に始まる。両者の影響関係は今のところ定かではないが,中国の北と南においてほぼ同じ時期に釉下彩が一般化することになる。因みにその影響関係について中国の学者の中には,金の南進によって南に逃げた磁州窯の陶エが吉州窯に技術を伝えたとする説がある。確かに技術発展史の面から釉下彩技法の登場を考えるには,磁州窯にみられる筋道がごく自然な経路を示している。したがって磁州窯の技術が吉州窯に影響を与えたとする説は魅力的ではある。しかしこれには今のところ確かな論拠が示されていない。-322-

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