鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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3.青花の創製また,12,3世紀頃の中国南部では,吉州窯のみならず,浙江省,福建省,広東省などの幾つかの窯場で,鉄絵の焼造が行われている。浙江省を中心とする越州窯では,4世紀頃から鉄釉を用いた鉄班装飾が行われている。越州窯は青磁と黒釉を完成したところとして知られているが,その両者の釉薬をかけ分けるという意識でなされたものと考えられ,この手法は越州窯では主流とはなっていないが,確実に技術は伝えられ,10世紀頃には筆を用いて文様をあらわすことも行われるようになる。この様なかけ分け手法の経験下で,釉下彩技法の鉄絵が生まれる可能性も考えられる。中国南部における鉄絵の技法は,この越州窯鉄絵の技法の伝播という可能性も考慮に入れる必要があろう。現在最も青花の初源的な例として認めうる資料は,元時代の後至元2年(1336)に埋葬された墳墓から出土した青花観音像(注3)と,江西省歴史博物館に収蔵されている,後至元4年(1338)の銘文が記された青花釉裏紅楼閣式墓誌と青花釉裏紅四神文壺である。楼閣式墓誌の銘文は銅の顔料を用いた釉裏紅で記されているが,その他はいずれも貼り付け文様の突起部分などに顔料を施したもので,ここではまだ釉下彩で文様を描く意識にいたっていない点から,試行的段階にあるようにみえる。いずれも景徳鎮の産品と考えられ,中国産の顔料を用いた,景徳鎮における釉下彩技法の試行的作品として貴重な資料であろう。また,膨大な量の中国陶磁が引き揚げられた韓国新安沖の沈没船の積み荷から,簡素な文様があらわされた景徳鎮産の鉄絵と釉裏紅の作品が発見されている。ここからは元時代の「至治三年」(1323)と記された木簡が出土しており,積み荷全体の年代考察から,その沈没年代は1323年を上限とした14世紀前半のことと考えられている。上記の資料から考察して,14世紀の10年代から20年代には,景徳鎮に釉下彩技法が始まっていると考えられる。この景徳鎮への釉下彩技法の伝播についても,まだ確かなことはわからない。同じ江西省の吉州窯からの影響を考える説もあり,また景徳鎮から磁州窯の鉄絵作品の出土が伝えられ,さらに磁州窯で金元時代に焼造された赤絵の作品も元時代に景徳鎮で模倣されているところから,直載に磁州窯から技術が伝えられたとする説もある。透明釉をかけて一度焼き締めておいた器物に,低火度鉛釉である色釉を用いて文様を描き,900度程の火度で再び焼成する赤絵(五彩)は,元時代-323-

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