鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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までは磁州窯と景徳鎮以外ではみられない技法であるところから,この直裁の技術伝播は高い可能性をもった説ともいえる。しかし上述の14世紀の20年から30年代にかけての試行的作品や,新安海底からの出土品には,磁州窯や,吉州窯をはじめとする中国南部の鉄絵においてみられるような技術的完成度が,全くみられないことも不思議である。この問題の解明もまだしばらく時間が必要とされる。そして上述の景徳鎮における釉下彩草創期とみられる作品と,極めて完成された様式をみせる至正11年銘の作品との完成度の相違は誠に著しいものがある。この至正11年銘の作品にみられる様式の完成期もいまだよくわかっていないが,この間の展開については,景徳鎮独自の技術発展では説明しえない様相を示している。4.青花技法の完成近年,景徳鎮陶完考古研究所の劉新園氏は,史書に記された「浮梁磁局」の存在に着目し,ここで元の青花が生産されたことを指摘している。元時代に朝廷に直属する機関として「将作院」が設置され,ここで「異様百色造作の成造を掌った」といわれる。そしてその下に属する各専業局の中に浮梁磁局の名がみられる。「浮梁」とは景徳鎮の属する地域名で,「磁局」とは陶磁器の製造をつかさどる機関であろう。景徳鎮は浮梁地域を代表する,随一の窯場である。したがってこの磁局が管理した窯場は景徳鎮以外には考えられない。そして劉氏はさらに,将作院には多くの西アジアの職人が作業に従事していたこと,そしてそこでは西域からもたらされた材料を大量に使用し,そこに記された顔料の中に「回回青」(イスラム地域からもたらされた青い顔料)の記述も史書にあることを指摘し,ここでイスラム圏の技術,材料をえて,青花が完成したと論じている(注4)。また,モンゴル史の研究において近年顕著な成果を示されている歴史学者,杉山正明氏によれば,モンゴル政権においては技術者が厚遇され,多くの技術者が元時代の中国に呼ばれて優遇されていること,元朝を建国したクビライは陸上,海上の交通網を整備して,ューラシア・サイズの帝国の建設を目指し,その地域的広がりの中で技術文化交流や産業開発を誘導したこと,そしてその結果としての貿易活動の活性化を指摘している(注5)。そして事実イスラム地域では,コバルト顔料を用いた陶器が作られている。しかし,硬質な磁器は作りえず,硬く美しい磁器に対するあこがれ,需要があった。-324-

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