鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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また,先に指摘した通り,元時代の青花はイスラム圏に多く収蔵され,さらに元青花の器形や文様は,イスラム圏好みといえるようなイスラム圏の金属器にみられる形,文様構成をあらわしているものが多い。まさにイスラム圏へ向けた貿易商品の様相がつよくみられることも注目される。これはまた劉,杉山両氏の指摘するように,元王朝は貿易活動を積植柏勺に推し進めたこと,そしてその主要な貿易物資であったのが青花である,という東西の史書の記述にも符合する事実であろう。先述した中国陶磁の発展史と絡め,劉氏と杉山氏の指摘を綜合して考察してみると,元青花は,イスラム圏の技術,嗜好,コバルト顔料の導入を契機として,イスラム圏にはない景徳鎮の良質な白磁原料と焼成技術,そして試行が始まっていた釉下彩技法が完成させたものと考えることができる。元時代の青花の生産地における出土例は,今のところ景徳鎮以外にはない。そしてトルコやイラン,その他の伝世作品を調べても,その胎土や釉薬から判断して,景徳鎮以外の作品はみあたらない。この点からみても,元青花は景徳鎮で完成したことは疑いない。そしてその完成を誘導したのが,浮梁磁局であったということなのだろう(注6)。青花磁器は,杉山氏の指摘のように,モンゴル帝国というユーラシア・サイズの大国家を背景として,その下であったからこそイスラムの原料,需要と景徳鎮の技術が結び付いて完成されたものといえよう。そして青はモンゴル族などの内陸に暮らす遊牧民にとって聖なる色であったといわれる。そのようなモンゴルの嗜好もここに反映されているかもしれない。そしてその状況下での,元王朝の貿易商品の生産という国家的な要求があったことが,短期間での技術の完成に結び付いたものと考えられる。浮梁磁局は至元15年(1278)に設置されたといわれる。しかし現在得られている資料からみれば,青花の完成年代をここまでひきあげることはできない。前述のように14世紀の2,30年代以降至正11年以前のある時期のこととみるべきであろう。こうして完成した青花は,先に記した「至正11年」銘の作品を指標とした一つの様式として認識され,「至正様式」と呼ばれている。大盤に盛った食物を囲んで車座に座り,各自スプーンを持って大盤から食物を取り口に運ぶという,イスラム圏の宴席にふさわしい大型の盤や,大壺など,それまでの中国陶磁にはみられないような大型の器体が特徴で,文様帯を何層にも分けて,器面に隙間なく文様をあらわす。各文様は中国的な要素をもっているが,文様構成はイスラム圏の金属器にみられるもので,それに範をとったものであることがよくわかる。そして青花草創期に相応しく筆致は-325-

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