力強く,雄渾な文様表現で仕上げられていることが特徴である。しかし,至正11年銘の作品自体は,江西省の道教の信者が一家の平安を祈って寄進したもので,中国国内の需要を受けて焼造されたものである。おそらくイスラム圏への輸出を目的として完成された青花であったが,元時代末期にはある程度の国内需要があったことがわかる。そしてここにみられる器形は中国の伝統に則った青銅器の器形を模倣:したもので,そこにあらわされた文様も厳密にイスラム圏の金属器を模倣したものとはいささかことなる。現在知られている元青花は300から400点程とみられ,その多くはこのような様式の作品である。イスラム圏に残る作品も同様式の作品が多く,ごく一部の大盤にイスラム金属器の模倣と思える白抜き文様の作品があるにすぎない。この点からみて,イスラムの触発を受けて完成した元青花のごく初期には,イスラム金属器の忠実な文様表現の模倣が行われたものの,急速にそれを咀哨し,中国的に完成させたものが至正様式である。将作院では文様を考案する画局があったといわれ,元青花の完成が将作院の下部機関である浮梁磁局の下で行われたとすれば,イスラム表現の忠実な模倣から至正様式完成への道程は,将作院および浮梁磁局の主導下になされたものと考えることができる。現在のところイスラム表現の元青花は極めて少なく,これに一様式をたてる必然性は見出だせない。イランのアルデビル寺院に収蔵されている元の青花は,モンゴル帝国の支国であったフレグ・ウルスの伝世品であったとする見解がある(注7)。元朝とフレグ・ウルスには親密な関係があったようで,元朝からの元青花の贈り物があった可能性がある。そうであればこの至正様式の確立は,中国大陸を本拠としてモンゴル帝国の中心として君臨した元朝が,帝国内の支国やイスラム圏へ対して,自らの威勢を示すための事業として行われたものかもしれない。それゆえに文様の中国化がとりわけ早く進められたとも考えられる。5.明の官窯元青花の景徳鎮窯址からの出土例は,湖田窯,落馬橋窯,そして明時代に官窯が築かれた珠山に確認されている(注8)。この3ヵ所における元青花の差異は認められない。おそらく3ヵ所ともに同じ質量の元青花を焼造していたものと考えられる。したがって元王朝に直属する機関に属する浮梁磁局の存在は,官窯的な要素を多分に有したものではあっても,宮廷の需要を担う専業窯を珠山に設置し,そこでのみ焼造を-326-
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