鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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担当した明時代の官窯とは,いささか異なったものとみるべきであろう(注9)。しかし翻ってみれば,元時代の浮梁磁局の存在が明時代官窯の景徳鎮設置の要因となったものであろうし,さらに潮れば,北宋時代以来優質な白磁を絶えることなく焼造し,中国国内のみならず,広くユーラシアの需要を連綿と満たしてきた景徳鎮であればこそ,ここに浮梁磁局が置かれるにいたったものなのであろう。明時代の官窯の設置年代については,古文献に依拠して,洪武2年(1369)説,宣徳元年(1426)説などがあった。しかし最近劉新園氏を中心とする景徳鎮陶売考古研究所は,明時代に官窯が設置された珠山から洪武年間の作品と考えられる磁片が出土したことにより,明の官窯,つまり御器廠の設置を洪武2年とみなす見解を示している。確かに珠山出土の洪武年間とみなされる磁片の中に,皇帝だけが使用できるとされる五爪を描いた龍文の磁片がみられることから,ここで宮廷用の陶磁器が焼造されたことは疑いないものと考えられる。この出土資料を裏付けとする洪武2年明官窯設置説は,今最も注目すべき論考であろう(注10)。ただこの洪武年間の官窯がどの様な組織をもったものかはまだよくわからない。この時期では,官窯の指標ともいえる官窯銘はまだ定例化しておらず,その制度が確立するのは宣徳年間になってからのことである。官窯銘についてみれば,洪武年間の作品には例がなく,永楽年間の作品の中にごくわずかではあるが,「永楽年製」の四字策書銘をあらわした作品があるところから,明の官窯は洪武2年に設置されたにしても,その体制の整備は徐々に進められ,宣徳年間において確立されるにいたったものと考えられる。明を建国した朱元埠はモンゴル帝国であった元の制度,風習を否定することはなく,むしろその制度,機構を踏襲したともいわれる。匠籍制度の踏襲もその一つで,工人の戸籍を固定して世襲制とし,官府の支配のもとにおくというこの制度は,元時代に始まるものであるが,洪武2年にはこの制度も復活させている。元時代の浮梁磁局による官府管理の焼造制度もこの時に復活した可能性があろう。洪武年間以降の官窯作品と目される出土資料が,珠山以外では発見されていないところをみると,景徳鎮地域の各窯場を総体として管理していたと思われる浮梁磁局とは異なり,珠山1ヵ所に限定した管理を行うようになった可能性がある。この時点で明時代の官窯が創設されたとみるべきなのであろう。作品についてみると,洪武年間では器形に変化が乏しい。洪武帝,朱元瑶は対外的-327-

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