6.永楽・宣徳年間の官窯には海禁政策をしき,明に対する朝貢貿易だけを認め,イスラム圏を交易の相手としていなかったことの帰結であろうか。イスラム産のコバルト顔料の流入も途絶えたようで,中国産の顔料を用いたことから青花の呈色も暗く沈み,そのためか青花に代わって銅顔料を用いた釉裏紅の作品が多くみられる。文様の描写もかた<,画ー的となり,元青花にみられる力強さ,躍動感が失せる。文様題材も多くはなく,菊や牡丹の唐草文様を主体とする植物文様が主流で,人物,動物文様をあらわした例はみられず,わずかに龍文様が散見される程度である。官窯が設置されたとはいってもその活動にはまだ限界があったように思える。この傾向は永楽年間に入っても続くようで,珠山からは「永楽元」と「永楽騨(4)年」と記した,洪武様式に属する2片の釉裏紅の磁片が出土している(注11)。したがって今日洪武様式と呼んでいる様式は,洪武年間を主な焼造時期とする永楽年間初期にかけてのものであることがわかる。洪武帝のあとを受けて即位した建文帝と争い,これに勝利して即位した永楽帝は,積極的に対外活動に乗り出し,官府主導による貿易活動を推進した。その代表が「鄭和の南海遠征」と呼ばれるものである。積み荷などその詳細は記録が失われていて不明であるが,陶磁器についていえばトルコのトプカプ宮殿などに残る作品によって,その一端を知ることができる。鄭和の遠征は永楽3年(1405)から宣徳8年(1433)にわたって7回行われている。珠山の出土例やイスラム圏に残る作品から類推して,少なくとも第1回目の航海の積み荷となった陶磁器は,龍泉窯の青磁と,今日洪武様式と呼ぶ作品であったに違いない。そしてこの第1回目か,あるいはその後の航海かにイスラム産のコバルト顔料を中国にもたらし,再びそれを用いた青花の生産が再開される。官府主導の貿易商品として,元時代にもましてイスラム圏の器形がとりいれられ,そこにイスラム圏のエキゾチズムを満足させるような中国の意匠を充分に配して,伸びやかな筆致で描かれた文様描写は,元青花に優るとも劣らない美質が感じられる。元青花よりも白地を多く配した文様構成は,さらなる気品を感じさせるもので,これが元から明時代永楽年間への確実な時代の変化を示すものといえる。そしてこの白地の効果的利用への展開こそが,明時代前期の青花の潮流ともいえるものである。宜徳年間に官窯の体制が完成されたであろうことは,ここで官窯銘を記すことが定-328-
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