鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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着したことで判断される。しかし,この官窯銘の定着化が何時の時期に行われたかはまだ確かなことはわからない。珠山の出土例によれば,宣徳時期の遺物とみなされる資料に,無銘のもの,「大明宜徳年製」の枠無し一行書のもの,同六字銘の二重円圏内二行書のものの3種の例がみられる。無銘の資料と枠無し一行書の資料は同一地点の出土例で,層位の上下関係から下層から出土した無銘の資料が古いことが確認されている。そして出土資料の器形から分析して,無銘の資料と枠無し一行書の資料は永楽期の遺風を多く残し,二重円圏内二行書銘を記した作品は永楽風を脱し,宣徳独特の形,様式を示していることから,無銘の資料と枠無し一行書の資料は宣徳前期の作品で,二重円圏内二行書銘の作品は後期の作例と考えられる。『明実録』によれば,宣徳5年までは焼造記録があり,ここで一時焼造を停止したことが記され,再び焼造記録があらわれるのは,『大明會典』の同8年の記録である。この記録に依拠して,景徳鎮陶完考古研究所は宣徳5年までの作品を前期と考え,同8年から宣徳年間の最後にあたる10年までを後期と考えている(注12)。つまり,宣徳前期に官窯銘の制度化が,おそらく漆器の制度を導入して始まり,後期にはいって後代に踏襲される形式の銘が制定されたということなのだろう。これまでは文献の記載をもとに,永楽から宣徳官窯を通じて,イスラム産のコバル卜顔料が用いられていたと考えられていた。実際宣徳官窯と永楽年間の作品にみられる青花の発色にさしたる変化が認められないところからも,この説がなんら疑いなく通説とされてきた。しかし,ごく最近珠山出土の宣徳銘の資料を中国において分析したところ,これが永楽期の作品と異なり,中国産の顔料を用いていることが判明したという(注13)。もともとイスラム産の顔料は単独で用いることはなく,中国産の顔料を加えて調合して用いたものであった。鄭和の遠征が終了して以後はおそらくコバルト顔料の流入も途絶え,その結果として国産の顔料だけを用いた青花の焼造を行ったということであろうが,それにしても青花の焼造がイスラム圏との交易と極めて密接に結び付いたものであることがわかる。そして発色が劣るといわれる中国産のコバルト顔料を用いているにもかかわらずその発色の美しさは,良質なコバルト鉱の発見があったためかもしれないし,あるいは顔料調整技術の向上の成果とみるべきなのかもしれない。両者の要因の結び付きも当然考えられる。やはり技術は確実に進歩したとみるべきなのであろう。いずれにしてもこの宣徳年間において,明時代の官窯の諸制度が整えられ,技術も-329-

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