究2』愛知県1998年3月)―-24 -1993年6月)1996年)1956年)(6) 「光欽覚書」『佐賀県史料集成』第二巻(佐賀県立図書館1956年)8)に説かれている阿弥陀仏への寄進,念仏三昧のことなどを考慮すると,旧来蔵山順空像は正安二年(1300)に制作されたことがあきらかな彫刻で,台形の木口材を用いた特殊な木寄せがみられる。表現においてもきわだった類例はなく,現時点では造像した仏師の系統についての考察は困難である。(2) 院派仏師については,おもにつぎの論致に詳しい。清水慎澄「仏師院吉,院広の事績とその作例一十四世紀における院派の動向をめぐって一」(『中世彫刻史の研究』有隣堂1988年3月)山本勉「南北朝・室町時代の彫刻」(『禅宗寺院と庭園』日本美術全集11講談杜展覧会図録『中世の世界に誘う仏像一院派仏師の系譜と造像』(横浜市歴史博物館1995年11月)(3) 院吉・院広の作風の形成についてはつぎの論積が最新の研究成果である。山岸公基「暦応三年銘の赤岩寺位牌堂阿弥陀如来坐像をめぐって」(『愛知県史研(4) 山本勉「圃成寺大日如来像の再検討」(『国華』1130号1990年)肥前における同様の作例としては小城町三岳寺の仏像があり,樟材が用いられていることなどから,やはり現地での制作と考えられる。竹下正博「肥前小城三岳寺の薬師・大日・十一面観音像」(『MUSEUM』543(5) 「肥前国守護北条為時(時定)書状」『佐賀県史料集成』第二巻(佐賀県立図書館(7) 「沙弥雌光(国分忠俊)比丘尼明阿弥陀仏連署置文」『佐賀県史料集成』第二巻(佐賀県立図書館1956年)(8) 「沙弥尊光(国分忠俊)比丘尼明阿弥陀佛連署置文」『佐賀県史料集成』第二巻(佐賀県立図書館1956年)高城寺の名称についても,(注5)に記される「高城禅寺井諄光寺」が初出で,それ以前の(注7),(注8)では尊光寺と記す。明阿弥陀仏の名や(注7),(注の尊光(国分忠俊)らの信仰は浄土教の影響をつよく受けていたようである。おそらくは蔵山順空の入寺を機にして,禅風が一新され,寺名についてもあらため
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