鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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7.成化官窯飛躍的に向上した。明時代の官窯の基礎はここにあるというべきであろう。宣徳年間の後,正統・景泰・天順の3朝の時期には官窯銘を記した器物は焼造されなかった。史書には宮廷の需要を受けた焼造がなされたことが記され,また班ミ山からもこの時期に比定される資料の出土がある。まだ正統年間と考えられる作品の出土例しか確認されていないが,珠山の官窯が稼働していたことはこの事実からも確頂忍できる。しかし官窯銘を記さなかった理由は,今のところ全くわかっていない。成化年間の官窯から再び官窯銘を記すことが復活し,以後の官窯作品はこれを踏襲することになる。宣徳官窯が確立した様式をここで再確認したとみることもできる。珠山出土の正統年間とみられる作品は,宣徳官窯の遺風が強く残るものである。その後の展開が現在では全くわかっていないが,成化官窯の作品が,文様の意匠化と,青花文様と白地との理想的な配分の極致ともいえる姿をあらわしているのをみるとき,元時代以来,洪武,永楽,宣徳,そして成化へと続く青花文様の潮流が,まさにこの姿に向かって歩んでいたことが理解される。その潮流の到達点にあるのが成化官窯の青花なのである。そしてこの成化年間において青花技法の発展の歩みは止まる。成化年間では青花とともに,青花で文様の輪郭線を描き,一度高火度で焼成した後に,輪郭線内に赤,緑,黄色などの低火度鉛釉を用いた上絵具を塗り付ける,青花と上絵を併用した「豆彩」という赤絵(五彩)の一種に数えられる作品が焼造されている。珠山の出土例により,豆彩は宣徳年間に試みのごとく生産がなされていたことが判明しているが,その完成期は成化官窯においてであった。この成化豆彩の完成によって五彩の美しさが確認されたかのごとく,この後景徳鎮の主力作品は,官窯,民窯をとわず,青花に代わって五彩となる。この主流作品の交替が明時代前期と後期とをわける指標となるものである。成化官窯の伝世作品は,青花と豆彩とをとわず極めて少ない。しかし珠山で発見された廃棄物資料は驚くはど大量なものであった(注14)。成化官窯の完成作品は,まさに千に一つ,あるいは万に一つを選ぶほどの厳格な検品によって選ばれたものであったのである。ここにも官窯機構の極致が成化官窯にあることをよく示していよう。この後はこれほどの厳格な管理は行われず,官窯の技術の低下とともに,民窯に宮廷需要の一部を委託する「官搭民焼制」とよぶ方式が取り入れられるにいたり,官窯の-330-

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