注7.おわりに(1) 揚州博物館・揚州文物商店編『揚州古陶荒』文物出版社1996年(2) 中国珪酸塩学会編『中国陶歪史』文物出版社1982年体制が大きく変化する。これは嘉靖年間から定着した制度としてよく知られているが,その萌芽期は成化の後に続く弘治,正徳年間にあると考えられる。こうした状況下で官窯作品も青花を併用した五彩が主流となり,文様描写も厳格さを失う。言葉を換えれば,民窯作品にみられるような,のびやかで,自由な描写の文様となる。そしてこれこそが明時代後期の官窯作品の特徴といえるものなのである。近年の景徳鎮珠山地区の出土資料の豊富さは目を見張るものがある。今回の調査ではそのごく一部を実見するにとどまったが,報告書や,各地で開催された展覧会のカタログに掲載された資料には,実に多様な技法が存在したことが示されている。とくに永楽年間の作品と比定されている資料の多彩さは驚くばかりである。伝世品にみられる永楽年間の作品は,青花を主体として,白磁,紅釉などごく限られた手法の作品である。しかし出土資料には,金彩,紅彩などといった,白磁を焼成した後に文様を賦彩し,二次焼成を行って焼き付ける作品も含まれ,ここで行われていないのは,多色で文様を描く五彩の手法だけといってもよい状況である(注15)。しかしながら,その様な手法の作品が伝世していない事実は,この時期にはそういった各種技法はまだ試行錯誤の段階にあったもので,技術の完成にまではいたらなかったものとみるべきであろう。つまり様々の技法を試みた,いわば試焼の段階であったのである。この試焼がイスラム圏へ向けた貿易品としてのものなのか,宮廷で用いるための器物としてのものなのかは,今詳らかではない。しかし,この時期にこのように様々な技法が試されていたことが確認できたことは貴重な発見であった。そして,この各種技法はこの段階では完成されなかったものの,この後の官窯において次々と完成され,具体化する。こうした事実に立脚すれば,後代に進むべき道を開き,景徳鎮官窯発展の礎を築いたという点において,景徳鎮官窯の原点がまさに永楽,宣徳期にあったことが理解できるのである。中澤富士雄「やきものの基礎知識・中国のやきもの」『やきもの大百科第3巻-331 -
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