鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
346/711

433窟では平天井部分に,第423窟では人字披部分に描かれている。窟頂部には弥勒経脚俺坐像で,他の三例では交脚であるが,交脚の場合は,足先が台座の下部まで下りずに宙に浮いたようにもみえる姿勢となっている点が特徴的である。敦煙において北朝期に盛んに造像された交脚弥勒菩薩像は,唐代には衰退して1奇坐の弥勒菩薩が定型化するが隋では交脚弥勒と椅坐の弥勒の双方が混在している(石松日奈子「中国交脚菩薩像考」『仏教芸術』178参照)。一方,西壁寵内に安置される本尊は,第423窟では如来1奇像,他の三窟は如来訣坐像である。如来1奇像は敦燈では北涼の第272窟の本尊が早い例で,北魏の中心塔柱式石窟では塔柱の東面,すなわち正面に如来椅像を安置するのが通例である。北朝期においては1奇坐であるということを根拠として尊名を特定することはできないようであるが,初唐時代の如来椅像については,銘文で確認できるものとしては弥勒仏と優填王に限られるという(肥田路美「観修寺繍仏再考」『仏教芸術』212)。また敦煙の弥勒経変相図でも唐以降にみられる弥勒如来の図像は俺像である。それに対し,ここで取りあげた第423窟の如来俺像は,二比丘,二菩薩をしたがえた五尊像で,さらに寵外に八比丘,四菩薩が描かれているが,践坐の如来像を本尊とする他の三窟と比べて格別な特色のある構成ではない。恐らく隋においては未だ如来椅像が弥勒に限定はされてはおらず,この場合は釈迦とみても問題ないようである。ところで,ここに挙げた四窟は石窟全体の壁画および天井画の主題構成にも相互に共通する要素が多い。弥勒経変相図はいずれも窟頂部に位置しており,第417,419, 変相図のほかに,第417,419, 423窟では敦煙北朝期に好まれた主題である本生図が表されており,一方,第417,433窟には,唐以降に多くなる薬師経変相図の早期の例がみられ,北朝から唐への過渡期的様相を呈している。なお,この四窟にはすべて維摩・文殊の問答図が描かれているが,このような維摩経変相図は敦煙隋代の諸窟にみられるものであり,とくに弥勒経変相図とのみ密接な関連のある主題というわけではなかろう。また,南,北,東の各壁面は上縁部に天人図,下縁部に供養者図が表され,さらに南北壁では中央に説法図が表される場合があるが壁面の大半の部分は千仏で埋め尽くされている。これもまた隋代の石窟壁面構成の通例といえるものである。このような形式は,すでに敦煙北朝期に多くの例がみられるが,北魏のものでは下縁部に供養者ではなく薬叉を配置する場合が多く,また上縁部の天人の表現にも違いがみられる。-336-

元のページ  ../index.html#346

このブックを見る