鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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3.初唐の弥勒経変相図すなわち北朝期の例では,壁面最上部に沿って連なるように描かれたアーチ形や宮殿形の建物の中に,それぞれ奏楽天人を表わしているが,これは兜率天の宮殿内で楽を奏する天人を表現したものであり,その源流ともいえる図像がキジル石窟にみられることが指摘されている(宮治昭「キジル第一期のヴォールト天井窟壁画」『涅槃と弥勒の図像学』吉川弘文館)。これに対し隋の例では,宮殿は表現されなくなり,天人は衣をなびかせて空中を自由に飛んでおり,いわゆる変化生を伴っている場合もみられる。すなわち西域的天人図から中国的天人図へ変化している。さらにここで注目すべきは天人図に宮殿が表現されなくなる点である。北魏の諸窟では壁面上縁に位置する兜率天宮内の天人図を境界として,そこから上が天上世界,その下は地上世界という認識があり,それが壁画の構成にも反映しているものと考えられる。すなわち天人図の下方にあたる壁面には降魔図などの仏伝図や本生図が描かれる場合が多いが,これらはいずれも地上世界を舞台とした場面である。それが隋になると兜率天の場面を表わす弥勒経変相図も地上世界を舞台とする本生図も,さらには浄土の場面である薬師経変相図までもが,ともに窟頂に表されるようになる。天人図に兜率天をイメージする宮殿が表現されなくなるとともに,天上世界と地上世界の境界としての意味が稀薄になっていると考えられる。初唐になると敦燻の壁画構成は大きく変化し,壁面全体を千仏で埋め尽くすのではなく,南北壁一面に変相図が表わされるようになり,弥勒経変相図の位置も窟頂から南北壁へと移る。それとともに表現される内容も複雑になり,尾崎氏が指摘されているように画面中心には下生し仏陀となった弥勒仏を,その上方には兜率天における弥勒菩薩を描くという,同一画面中に『弥勒上生経』と『弥勒下生経』の両方の内容を含む変相図が現われる。このような新形式の典型的例ともいえるのが第329窟北壁の弥勒経変相図で,画面の中軸線上に弥勒菩薩と弥勒仏が,ともに須弥座に{奇坐する類型的姿で表わされている。この時期には弥勒菩薩を交脚で表わす形式は衰退したものと思われるが,弥勒菩薩と弥勒仏を同じく{奇像で表わすことにより両者の関係を鮮明に印象づける効果をあげている。一方,『弥勒下生経』の内容を表わさず,『弥勒上生経』に説かれる兜率天における-337-

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