ならば,弥勒仏の上方に兜率天中の弥勒菩薩を表わすという意閃で,本尊~上に弥勒弥勒菩薩のみを表現するという隋以来の形式を踏襲しているのが,第338窟西壁の本尊仏寵上部に表わされている弥勒経変相図である。第338窟は,南,北,東の三壁面に千仏を表わすという旧来の壁面構成となっており,さらに伏斗形の窟頂にも千仏が配されている。西壁の寵内の本尊は如来椅像で,弥勒経変相図は寵のすぐ上に表わされている。その画面中央に大きく描かれる兜率天の宮殿は,大棟上に宝珠を載せた主殿とその左右に連なる翼廊からなっており,主殿内には俺像の弥勒菩薩と脇侍菩薩立像が,翼廊内には奏楽天人が表わされている。このような画面構成は隋の弥勒上生経変相図に近いものであるが,隋の諸例ではいずれも宮殿が簡略な線描で平面的に表わされているのに対し,第338窟の場合は建物の奥行きが表現されているなど,全体として時代の差を感じさせる表現方法となっている。とはいえ『弥勒下生経』の内容を表わしていない点では隋以来の形式であり,さらに石窟全体の壁面構成も,千仏を一面に表わすという旧来の手法を踏襲していることと考え合わせると,第338窟は隋から唐への過渡期的性格をもった石窟であるといえよう。さらに,弥勒経変相図が石窟のどの位置に表わされているかという点についてみると,先に述べたように隋の上生経変相図はいずれも窟頂部に描かれ,一方,弥勒仏と弥勒菩薩を同一画面に表わす初唐の新形式のものは北あるいは南壁に表すのが通例である。これに対し第338窟の上生経変相図は西壁上部,すなわち本諄仏寵の真上に位置している。本腺の如来椅像は清代に改修されているものの体躯は当初のもので,元来から椅坐の如来であったとみられ,弥勒仏である可能性が考えられる。そうである上生経変相図を配置したとの推測もできなくはない。弥勒仏の上方に弥勒菩薩を表わす新形式の弥勒経変相図に通ずる概念といえるのかもしれない。以上述べてきたように,これまでに敦煙における隋から初唐にかけての弥勒経変相図について検討し,図像上の変遷や石窟全体の構成と弥勒経変相図の関連についていくつかの知見を得ることができた。石窟壁画を研究するにあたっては,石窟全体の壁面構成や,本尊像をはじめとする安置仏の尊名や配置を検討することにより,石窟内部の空間構成がどのような概念に拠っているかを理解することが重要であり,今後は,初唐以降の弥勒経変相図を中心に,そのような観点から研究していきたい。また弥勒に関しては,交脚の菩薩像と如来像,あるいは1奇坐の菩薩像と如来像,さらには-338-
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