〔図8〕の勢至菩薩,また第十号壁の「薬師浄土図」の月光菩薩と体の角度,肩に垂れている髪の形,なめらかで長い眉,耳の上にある未だパターン化が進んでいない宝冠の飾り等の点で類似している。大梵天王と共に画面の右へ向かって体を少し廻している釈迦の場合も幾つかの点で法隆寺壁画と類似性を見せているが,例えば薬王菩薩と比定されている脇侍の弾力のない胸は釈迦の胸とその角度や形が似ており,長い眉や眼もその形が通じる。当時の作品の中で法隆寺壁画を参考にした例としては,他にも下村観山の明治29年の作品「佛誕図」〔図9〕があり,観山は「佛誕」の中の摩耶婦人や僧侶のポーズ,朱を使った線描などで法隆寺壁画の表現〔図10〕を参考にしたことが分かる。明治28年4月1日から100日間,京都霙都および内国博覧会を記念して,法隆寺伽藍諸堂の特別開扉があり,彼らが直接法隆寺壁画を見た後それぞれの作品製作の際参考にした可能性も排除できないが,当時法隆寺当局は個人的な壁画模写を許しておらず,また春草と観山の作品と法隆寺壁画との類似性がかなり高いのを見ると,岡倉天心の「日本美術史」に出てくる桜井香雲の模写画を参考にした可能性がある(注11)。当時帝国博物館に所蔵されていた桜井香雲の模写画は,いつ描かれたかは明らかではないが,少なくとも明治22年4月までは帝国博物館に収められたと思われ,春草と観山がそれを参考にしたのではないかと推測される(注12)。では彼らが釈迦の事跡を取り上げた作品で法隆寺壁画を参考にした理由ははたして何なのか。勿論彼らの法隆寺壁画に対する認識は,最高の価値を有するもので,日本人の天才が,アジャンタの洞窟の壁画のすぐれた技量にすら,さらに付け加えることの出来た所以を示している,と誉めちぎっている岡倉天心のそれと共通のもので,そのような認識のもとに法隆寺壁画を参考にしたのは自然である(注13)。しかし,彼らが法隆寺壁画を参考にしたのは単にその優れた芸術性や画題の類似性のためだけではない。それは彼らが法隆寺壁画の中でインドのイメージを見出したためと思われる。天心の「日本美術史」に出ているように天智時代の美術は,インドギリシア美術の面影を一番よく残している例として認識されており,その中でも法隆寺壁画はインドの影響を受けた第一の例とされている(注14)。このような天心の教えが観山,春草らに及ぼした影響の結果,彼らは釈迦関係の画題を取り上げた作品の中で奈良美術のモチーフや表現を参考にしたと思われる。-344-
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