(17 48)と考えられる。年(1797)が芸大本の書写年と考えられる。(1806■1880)の蔵書印「花酒家文庫」もあるが,これは芸大本に直接捺印されてい(1865■1942)の旧蔵書である。亨吉は明治四十一年に京都帝国大学文化大学学長をふたつめの奥書には,「按スルニ戊辰ハ元和九年よりして六年の後/寛永五年戊辰の年の事なるへし崎水の旅宿に石崎玄徳二与ふと見ゆれは内膳ハ/尚画法修行のため長崎の方へ趣し時書て/人にあたへたるにや崎水の地名いか>」と記されており,最初の奥書に記される戊辰の年を後素集が完成した元和九年より六年後の寛永五年としているが,石崎玄徳の歿年が明和七年(1770)であることから,この戊辰は寛延元年三つめの奥書には,「右後素集三冊を合巻一巻卜成せる古写本(中略)万代の亀鑑なるへしと速に/これを写して賞鑑の宝とし伝る事爾/塵山居子螢(印文不明朱文方印)/亀石平辮王秀誌/寛政九丁巳年五月」と記されており,この奥書に記される寛政九これら三つの奥書から得られる情報のなかで注目すべきは,最初の奥書に記されている,寛延元年に『後素集』を書写し,石崎玄徳に授与したという内容である。石崎玄徳は中国絵画の鑑識の専門家,唐絵目利であり,大部分が漢画系の画題の解説書である『後素集』に対して玄徳が関心を示した可能性は高いと考えられる。なお芸大本には,明治・大正期の政治家,渡辺千秋(1843■1921)の蔵書印「渡辺千秋蔵書」が捺されている。また信州須坂藩主で,『扶桑名画伝』の著者堀直格るのではなく,貼りつけられたものであることから,当初芸大本に捺してあったものを切り取り貼付したものか,芸大本とは無関係なものなのか明らかでない。ただ直格が記した『扶桑名画伝』の一淫の項には,「〔後素集自跛云〕元和九癸亥年三月五日,狩野内膳重倍謹書」と記されており,今回校訂した12本のうち,跛文にこれと同一の字句が記されているものが芸大本以外にはないことから,芸大本が堀直格の所蔵本であり,『扶桑名画伝』の編纂にあたって直格が芸大本を参照した可能性は高いと考えられる。狩野A本の奥書は,「子時文化戊辰五年初冬下旬/秀岩写(花押)」というものであり,秀岩なる人物が文化五年(1808)に写したことが知られる。蔵書印は「渡部文庫珍蔵書印」のみである。狩野B本は巻ーのみの零本であるため奥書はなく,蔵書印もない。狩野A本は狩野B本とともに,明治から昭和にかけての思想家狩野亨吉辞職したのち,書画の鑑定売買を業とし,著述には「科学的方法に拠る書画の鑑定と-354-
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