て側背面は粗彫りのままとする寵像タイプが見られる。次に,四面体状に成形した上で1面あるいは表裏両面(2面)に造像するようになり,やがて西魏〜北周代になると4面造像が定型化し,その発展の過程を見ることができる。また,この地の作品は小型のものが多く,内容も道仏混合の士俗的な信仰を反映している。一般庶民の合カ(邑義あるいは法義と称する集団)による小規模で素朴な造像のスタイルであろう。ほぼ同時期の映西碑林博物館蔵・北魏景明2年(501)銘四面像〔図2〕は,同じ映西でも長安地域からの出土であり,四面各面均ーに三尊像を造るのは,仏塔や石窟の中心柱との関連が想像される。北魏末以降に山西や河南へ広がると大型化し,各面に3層にわたって計12寵を造像する山西省博物館蔵・東魏武定8年(550)銘李僧元四面像〔図3〕や河南博物院蔵・北斉武平3年銘佛時寺造像碑〔図4〕なども出現し,造像内容も豊富となる。しかし,唐代以降は激減する。石碑形式は方板状の立石の表裏二面に造像するもので,厚みが少ない。全体の形や装飾が中国の漢碑の伝統上にあることは明かで,碑首部は交龍を彫刻し(河南博物院蔵・東魏興和四年銘李氏合邑造像碑〔図5〕は銘文中に「交龍石碑像」と記す)中央に策額部を備え,題名は陽刻文字で彫り出し,碑文を陰刻文字で刻む点なども伝統的な手法である。このタイプの造像は河南に多く,中原の漢文化の土壌の中で好まれたといえよう。河南の仏教石窟では五世紀末以降に石碑形を壁面に浮彫で表した造像記が流行したが(注9)'このことは石碑形の造像碑が流行する下地となったと思われる。しかし,河南の早期の作例である京都国立博物館蔵・北魏神亀3年(520)銘輩饗造像碑〔図6〕は頂部に交龍をあしらうものの,仏寵像に近いものである。同年の大阪市立美術館蔵・北魏正光元年銘郭氏等ー百人造像碑〔図7〕が片面造像ながら碑形を象っている。一方,同年のスイス・リートベルヒ美術館蔵・北魏神亀3年銘合邑四十人等造像碑〔図8〕は方碑状を呈し,山西の南部の作と思われるが(注10),上部には交龍を浮彫りしている。さらに,同年の年記をもつ英国V&A美術館蔵・李僧智造像碑〔図9〕は山西の西南部の作例であるが,頂部に龍首を彫刻する石碑形式で,しかも四面に造像している。石碑形式の出現については河南〜山西南部〜快西の範囲で検討すべきと考える。このスタイルでは碑陽(表の面)に大寵を設けて五尊像や七尊像を刻み,上方の簸額部は帳幕寵にして,兜率天上の弥勒菩薩を造像する。例えば河南省恨師寺里碑村・北斉天統3年(567)銘韓永義等造像碑は策額部に弥勒菩薩椅坐像〔図10〕,その下に-361-
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