鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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く石質〉造像碑に砂岩を使用するのは甘粛,挟西,山西地域である。北魏から唐に至るまで,これらの地域では砂岩が最も一般的な石彫材であった。次に,石灰岩で造像碑を造るのは河南地域である。河南では石灰岩が最も一般的な石彫材である。ただし,北魏末以降は山西や映西にも石灰岩の作例が見られるようになる。砂岩には黄色や赤味を帯びた色調のものと,灰色系統のものがあり,後者は石灰岩と混同されている場合も多い。例えば映西省耀県薬王山博物館の作品は,色合いはみな灰色または青灰色で,早期のものはやや粗目で砂岩に近く,後期のものはやや堅めで石灰岩に近い。現地ではすべて「青石」(石灰岩の一種らしい)とするが,一部の報告では「砂石」(砂岩)とするものもある。ただし,仮にこれらがすべて青石であるとしても,河南の黒味を帯びた堅牢な風合いの石灰岩とは異なる。白大理石(白玉)や白石を用いた造像碑は北魏末以降に映西に多くみられる。この時期中国では河北省の定県でも大量の白玉像が製作されたが,なぜか造像碑の作例は見当たらない。黄華石(黄玉)は,映西を中心とする北朝西部地域で西魏〜北周〜隋代に使用された。黒石は甘粛地区で出土した北涼〜北魏期の塔像に見られる。石材は,多くの場合製作地近辺で採れる石を使用したと思われるが,中には銘文に「遠雇石匠将昆山之美石」(英国V&A美術館蔵・北魏庚子年銘李僧智等四面碑像),「採石金山遠求名匠」(河南省登封碑棲寺・北斉天保8年銘劉碑等造像碑),「石出藍田求工班爾」(河南省櫃師寺里碑村・北斉武平2年僧道略等三百人造像碑)などと記すものもある。鹿裔山も藍田も古米中国の玉石の産地として知られている。ただし,そのように記した作例が必ずしもそのとおりに玉石を用いているわけではなく,実際は石灰岩や砂岩である。つまり,このような文句は銘文中で造像を賛美する美辞麗句として常用されたのである。遠方にエ匠を捜したという内容も同様であろう。長文の碑文を刻む石碑形の造像碑には,特にこのような修辞的表現が多い。<像の大きさと出資者〉10センチはどの小像から5メートルに達する大像(最大のものは河南省登封碑棲寺・北斉天保8年銘劉碑等造像碑)まである。小型のものは玉像や黒石像に多く,特に仏塔や宮殿形に造るなど,建造物のミニチュアとして造られたものであろう。大型のものは石灰岩製の石碑形式に多く,碑座を別石とするほかは碑首と碑身を一つの石材で彫り出している。-364-

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