⑬ 日本近代美術における戸張孤雁芸術の再考察—新発見関係資料を加えて一20点,挿絵4点,版画7点(年賀版画も含む),版画下絵19点,鉛筆素描1064点(ス研究者:財団法人緑山美術館学芸員千田敬一はじめにまず今回新たに調査した資料についてその概要について述べると,総点数は約1184点である。ただし,一枚の紙に2つ以上の別種類の素描があるような場合も1点とした。この資料調査は,現収蔵者日本美術院の許可のもとに1点ずつ点検し調書及び写真記録を取りながら行なうことができた。内容は油彩画14点,淡彩(水彩画を含む)ケッチブックを解体したと思われるものが多く含まれているが一枚を1点とした。鉛筆素描でも確実に版画下絵と判別できるものは除いた。),その他の下絵4点,パステル画4点,水墨画など18点,孤雁以外の作者のもの4点,展覧会目録1件,手拭1件,孤雁と中原悌二郎や堀進二の寄せ書き墨絵入り狂歌1件がある。素描には中原の素描と思われるものが5点はど含まれていたが,今回は判別せず鉛筆素描中に含めてある。此の様に今回の分類は大まかであるのでより細密な分類が必要である。これらの資料が描かれた期間は,アメリカ留学時代から大正末頃までのものと考えられる。他にアメリカ留学期の1905年の挿絵クラスの級友たちから贈られた紐綴じ紀念画帖を解体した,スケッチやメッセージ23点が含まれている〔図1■ 2〕。これには,ウエドリックという画家から贈られた「帰国」という題の挿絵風の作品も含まれていた〔図3〕。これとは別であるが,1902と1905のEdwardSchoolとサインされた2点のデッサンがあるが作者は不明である。EdwardSchoolは孤雁が関係していた学校であろうが未調査である。この資料から当時のアメリカにおける美術学校の挿絵の傾向が推察できる。戸張が使用した孤雁という雅号は,彼の生き方の根幹に拘るものである。孤雁という雅号が使用され始めた時期は定かでないが,明治41年発行の『孤雁挿絵集』の中では挿絵中のサインは孤雁を使い,著者としては本名の亀を使っている。同時代に吉江孤雁という文学者かいるが戸張の場合は文学的なものでなく,結核という病を通して死を毎日現実のものとして感じ,人から疎まれる切羽詰まった孤独な心境が雅号命名の切っ掛けであったことは容易に察せられる。前記の心情を踏まえて孤雁の言動を見ると,芸術家としての向上心や広い見識があってのことであるが,歯に衣を着せぬ論説,衰退していく浮世絵版画に対する肩入れ,亡き畏友荻原守衛の彫刻-381-
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