観を後生に伝えようとする異常とも言える友情,そして結核と闘いながら布団のなかでメガホンを使って掠れた声で弟子に聞き書きをしてもらって『創作版画と版画の作り方』を完成させた原動力などには,生きる事の意義を求め死と闘おうとする気概を窺い知ることが出来る。血を吐いて伏せっていても,少し良くなると起き上がって彫刻を造ったり外出して用をたす,病状を聞いていた友人や知人が会って驚いて「大丈夫ですか。」と問うと「私には,時間がありませんから。」と答えていた。孤雁には,身近に中村葬,中原悌二郎など結核と闘いながら生命を作品に置き換えたような表現に至った友人がいる。彼らと労わり認めあいながらも,ギリギリの世界で競いあった表現は,共通して要らざるものを排除しすっきりとした鋭いものになっている。戸張孤雁について知られている主な資料は,文書関係で纏ったものは明治41年発行の『孤雁挿絵集(一)』,大正11年発行『創作版画と版画の作り方』,昭和3年発行『戸張孤雁作品集』,昭和5年発行の遺稿集『孤雁遺集』などがあげられる。他に,前記の書籍に含まれない論説が美術雑誌その他に見受けられる。美術資料は個人蔵のものは別として,東京国立近代美術館,東京国立博物館,愛知県美術館,和歌山県立近代美術館,千葉市美術館,條山美術館などに収蔵されている。先に触れたが,今回調査した美術資料は日本美術院に一つの風呂敷にまとめられて保管されていた。現存の元日本美術院彫塑部同人の方々は,この資料の存在をご存じなかった。また日本美術院の事務局の方も筆者が見いだすまでは,その存在に気付いておられなかった。この資料は,没後の昭和3年に谷中の再興日本美術院で開かれた戸張孤雁遺作展覧会の頃まとめて持ち込まれ,『戸張孤雁作品集』編集の折り使われた資料の残りの可能性がある。『戸張孤雁作品集』には,戸張孤雁作品集の後にと題して石井鶴三が書いた文章がある。その中に「…豚しい素描の習作のあった事を,私共は君の死後はじめて知って…」と記している。しかし『戸張孤雁作品集』にある石膏原型や素描,淡彩画などが現在東京国立近代美術館や愛知県美術館に収蔵されている。例えば『戸張孤雁作品集』の58番の足芸が,愛知県美術館に収蔵されている。従って,昭和3年頃美術院が遺族から借用した資料は一応返却されたと考えられる。前記の両美術館の収蔵作品の経歴は,孤雁の没後アトリエ兼住居に住んでいた孤雁の実弟や家族の作品に対する粗雑な扱いに耐えられず,弟子の喜多武四郎が依頼してアトリエから持ち出して保管していた物である。東京国立近代美術館収蔵のものは三木多聞氏や喜多が世話役となって作品保存や孤雁の顕彰を計画していた孤雁会を経て昭和44年に寄贈され,愛知のも-382 -
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