のは喜多から盛岡の関係者のもとを経て昭和末に収蔵された。喜多が孤雁の実弟に保管の申し出をした時期は,昭和12年に現在の練馬区小竹町に喜多がアトリエ付きの住居を新築し保管場所が確保された後であろう。昭和14年に十三回忌記念戸張孤雁遺作展を,喜多と山本豊市が門下生代表として銀座三昧堂ギャラリーで開催している。この時,仮に今回調査した資料を日本美術院から借りて展示したとすれば,平櫛田中や石井が関係して内情を知っているはずであるから,展覧会後遺族に返却されるのが筋と考えられる。しかし十三回忌の遺作展は,喜多が保管していた彫刻と素描等で開催された。従って今回調査した資料は,昭和14年当時には美術院に保管されている事が誰からも忘れられていたか,全く別の経緯で美術院に入ったと考えられる。戸張孤雁は,没後70年を過ぎたが纏った人物伝や研究誌がない。ここで,孤雁の人間性を現わすと思われる言い伝えを幾つか取り上げてみる。こまめな性格であったようで,外国生活の時や,結核という持病のため一生独身で身の回りの始末を殆ど自分でする必要があったから,裁縫以外は出米た。英語は堪能で,外国の結核治療法の知識なども心得て自ら治療していたようである。日本橋魚河岸生まれの生粋の江戸っ子でさっぱりした性格と,若いころは小生意気でU炎呵を切るような鼻っ柱の強い所もあった。一方,吉原,浅草,新宿十二杜などを素見に行く遊びも知っていたし,羽織の裏に鴬色の生地を使うなど粋好みでもあった。母から受け継いだと思われる商オもあり,何とか自立したいと考え小鳥や鶏を飼っていた。鶏の淡彩や素描があるのも,そのような理由からである。進取の精神,反骨精神,古い文化への愛着,きれいな女性を見ると気になるという好色な所など,庶民的な人物像が浮かび上がってくる。一方,日本に洋風挿絵の導入を意図して研究所を作ったり,荻原守衛の遺稿集『彫刻真髄』を編集するなど損得に拘らずこれと思ったら実行する行動力がある。最初は絵を描いていたが,彫刻もやるというような切替えの速さと実験精神がある。伝統的な意味の師弟関係でなく,広い意味で彫刻の後継者を育てた。孤雁には自分が進んでいる方向と違っても,良いものは良いとする柔軟性があった。彫塑を手はどきしていた山本豊市に,フランスに留学したらマイヨールが良いと示唆した。日本美術院時代に鑑査のおり孤雁が中原や石井を向うに回して「そちらの作品も良いが,私はこの作品にも良いもの認めます。」と譲らなかったと,平櫛田中が記している。常に死を前にしていた孤雁は後年我執が無くなり,平櫛や石井からよく日本美術院彫刻部のことで相談を受けていた。また杜会主義者として投獄されていた片山潜に人目を憚らず差し入れを続けた-383-
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