つ。trators』を見ると,孤雁のいた頃のアメリカのイラスト界の傾向を知ることができり,中村葬の油彩画を購入するなど人情深い面を持っていた。日本の近代における西洋美術の移入を考えるとき,日本で正規の美術教育を受けて留学した人とそうでない人に分けて考える必要があろう。孤雁は,留学前に正規の美術教育を受けていない組である。留学したとき既成概念を持たないで西洋美術を吸収し,逆に日本の外からの視野で日本美術とは何かを率直に見ることか可能であった。外国と日本で得た美術知識を天秤にかけギャップに迷う事がなく,帰国後日本の伝統芸術の共嗚できる世界を取り入れながら西洋の芸術との和合を目論むことができた。この点で孤雁は荻原守衛と発想の根源が同じで,我が事のように亡き畏友荻原の顕彰に身を入れた理由であろー,挿絵について孤雁は,渡米以前も好きで絵を描いていたが作品が残っていない。そして満19オのときアメリカに私費で渡る。本人は留学と考えていたが当初は,知合いの紹介でニューヨークで日本の陶磁器のような美術品をあつかっている森村商会に入杜する。孤雁がどのような仕事についたのか不明であるが,森村には図画書記物品検査係というような仕事もあった。留学前に片山潜から英語を教わっていたが語学力が十分でなく,仕事に不満もあったようで4ヵ月ほどで解雇される。アメリカでは新聞のイラストが最盛期で画家としての成功の確率が高かった。日本では挿絵専門の画家はいなかったし,洋風挿絵は普及していなかったから孤雁は将来性かあると考え,且つ渡米前に片山潜からの示唆もあったようで,学僕などをしながら,当時日本では純粋美術より一段下に見られていた挿絵の勉強を始める。帰国後の明治41年,片山から渡米前に英語を学んだキングスレー館に隣接して洋風挿絵研究所を設置した。そして,『孤雁挿絵集』にある様な「嗚呼せめて猫であったら!」〔図4〕や「同ぢ動物」〔図5〕の様な杜会主義的な挿絵を描き,43年から片山のいた月刊『東洋時論』に挿絵や挿絵広告を載せている。ところが大正2年,片山の渡米と前後して孤雁は挿絵から遠ざかっていく。このことから推察すれば,孤雁の洋風挿絵への関わりや普及に片山が関与をしていたことは明白である。片山は最初のアメリカ在住期に挿絵の社会への影響力を目のあたりしていたので,いずれ日本でも挿絵は大きな力を持つと考えていたに違いない。1892年にニューヨークのCharlesScribne's Sonsで発行された『AmericanIllus--384-
元のページ ../index.html#394