鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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る。孤雁の挿絵には,墨で濃淡を主にしたHowardPyleやRobertBlumの様な画風の影響が強い〔図6〕゜KenyonCoxには直接教わっているようで,Coxがデザインしたと同じような校章のデザインで,浮彫メダルのデッサン〔図7〕が今回の資料中に,石膏原型が東京国立近代美術館に残っている。RobertBlumは題材に日本の風俗を扱ったイラストを描いており,サインを日本画の印章のような形態にするなど日本の影響がみられる〔図8■10〕。孤雁はRobertの挿絵を見ていたと推定できる。孤雁のサインにはRobertと全く同型のものがあり,かつ題材に対してもその影聾が感じられる〔図11〕。そしで帰国後の挿絵普及に対してRobertは孤雁の精神面のカ強い背景になっていたと考えられる。孤雁の留学時代の挿絵は約20点ほど残っており,墨,水彩や木炭やチョークなどのモノクロームの作品が大半で,内容は劇の一場面という様な実感の薄いものが多い〔図12〕。この点は,帰国後の本の口絵に使用された挿絵にも同様の印象をうける。孤雁の挿絵は「挿絵と美術思想の普及」に述べられているように「…陰影光線を表しある最も完全な挿絵を主張する…」と光と影による洋風挿絵の導入を目的としている。しかし現在では資料的な意味は感じても,水墨画の様な芸術伝統を持つ日本では目新しいというより堀進二の「ボヤーットした…」感じという評や,中村不折から「そんな中途半端なものはやめろ」との忠告を受けたことの方に筆者は同感を持つ。この頃の孤雁は挿絵の意義を洋風挿絵と日本の挿絵の和合ととらえて,そのためには洋風技術による日本的雰囲気造りが必要と考えていたのでなかろうか。そのため墨色による明暗場面造りに主眼を置き過ぎ,弱い印象の作品になったと思われる。『東洋時論』には,コマ絵と言われた墨の一箪描きのカットや新東浮世絵と題した挿絵を載せている。コマ絵は,孤雁は実際に芝居を見て描いているので説得力がある。『東洋時論』の新東浮世絵はモノクロ版であるが,今回の美術院の調査で原画は色を使用していることがわかった〔図13〕。二,論説について『孤雁遺集』には,演劇についての評論は取り上げられていない。孤雁が演劇評論を載せたのは『東洋時論』であり,明治40年と45年(大正元年)の2年だけである。この原因としては,大正元年の12月に孤雁が結核療養のため小田原に転地したこと,恩師の片山潜が渡米のための準備や,東洋経済新報社内における立場の変化で孤雁の後ろ盾でなくなったことが考えられる。『孤雁遺集』の編集には片山潜の片腕であっ-385 _

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