図的に落としたと考えられるが他にも欠落している論説があるので,論説~部を網羅た三浦鐵太郎が関係したように記されているが,『東洋時論』に掲載された文章はまったく取り上げられていない。編集者の藤田東嶼に情報が伝わっていなかったか,意できなかったと考えるべきであろう。孤雁の美術評論の特徴は,孤雁自身にかかわるものが含まれていることである。明治期には美術評論の専門家は強いてあげれば岡倉天心,大村西崖,岩村透など二三人位の名前をあげることができる位で,批評を生業としていた訳でない。当時の美術批評の多くは,その分野の実技専門家によってなされた。このことは,場合によれば批評する作家側からの感情的で当を得ない一方的な論に終わるなど弊害があった。反面,的を得れば技術論と造形精神論の両面から的確な批評がなされた。孤雁の批評はその時代を知る上で貴重なものであるが,時折感情論に走り透徹した評論になっていないと感ずるものもある。しかし荻原守偉iに関する論説には敬愛の念が溢れていて,後年になるほど冷徹な目でその存在意義を説いている。孤雁は,身近に置いていた荻原の「戸張孤雁胸像」を通して徐々に造形の意義を見い出していったのであろう。高村光太郎は滞欧時代に公園について研究しているが,孤雁も洋風の公園論を書いている。光太郎は生来の彫刻家であるから造園を通した空間と物の配置に注意を払っていたのは当然であるが,孤雁も滞米時代から公園に目を向けていた事実は近代彫刻を考える上で重要でなかろうか。三,版画について今回の日本美術院の資料調査の発見の一つは,孤雁の今まで知られていない版画や下絵があったということである。孤雁の版木は,現存するものは愛知県美術館に収蔵されている(注1)。それらの版木には今まで版画作品が確認されていないものが混ざっていたが,今回版画が確認されたものがある〔図14〕。また蛇の目傘をさす女性の版木の下絵が見つかったが〔図15〕,版画そのものは確認できなかった。一方,版木に無い裸女と花びらの版画作品を確認した。また孤雁が版画のために実に多くの素描や実験的な下絵を描いて,その積み重ねの中から版画に移していく地道な方法をとっていることを確認した〔図16■24〕。前例に加え,版画の「玉乗り」〔図25〕に関連するものも残っている〔図26■27〕。古典的な「小田原妓楼」では素描〔図28〕などは版画の場面を設定した様なモデルの使い方をしているから,最初に楼閣から注文があって制作したらしい。その関連であろうか,今回の資料に手拭〔図29〕と思われる-386-
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