鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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31〕が「玉乗り」に,「楽屋内」勝川春好〔図32〕が「タンスの前」,勝川春章「両国ものが含まれていた。孤雁の版画を見ていると浮世絵からの強い影響が感じられる。例を挙げると鳥居清長「隅田川舟中余興」〔図30〕や奥村政信「浮絵芝居舞台」〔図勧進大相撲晴天大当繁昌之図」〔図33〕が「千住大橋の雨」や「橋の上の人々24-A」(注2)などに影響を与えている可能性がある。無論他の浮世絵版画からの影聾も考えられる。堀進二の思い出に依ると内容や質の程は不明であるが,孤雁は浮世絵版画をかなりの数集めていたとのことである。このことからも浮世絵の持つ視野や構図に大きな関心を持っていたことが察せられる。孤雁が版画にかかわった時期は,伝統版画が衰微し,古版画の複製が主流となり且つ新浮世絵版画と称するものの研究が盛んに行なわれていた。それに飽き足らない人々が,創作版画と称する自刻自刷の版画世界を作りあげていく。孤雁も創作版画に参加するが,伝統技法を学び且つ残したいとの願いがあった様で彫師と摺師に依頼したものが多い。そのため自刻自刷に捉われない発想のもとに創作版画活動に参加したので,恩地孝四郎などからは低い評価しか受けなかった。しかし孤雁の版画に見られる表現は研究を重ねたもので,彫り師や摺り師の横で口哨しく指示を出し,如何に自分の感性に近付けるかという次元で自刻自刷の世界との繋がりを考えていたに違いない。一方,孤雁の版画は伝統的古版画の世界からも評価されていない。ところが美術愛好家の間では,価格面で古い浮世絵版画に匹敵する様な評価を受けている。孤雁と同時期に橋口五葉や伊東深水などが,新浮世絵版画の再興を願って美人版画を制作している。しかし,美人画としての艶や資料性は感じるが時代を超える新鮮さが感じられない。それは,孤雁が「版画と展覧会」などの論説中に述べている「…我等の先祖が振出した生命の深さに撤してゐない…吾等の先祖から与えられた鍵をもつて開いていかねばならぬ…。」というような理念を持たず,美人画という範疇の中で感性を頼った制作をしていたことが一因でなかろうか。孤雁には,ものの生命を生み出す鍵が何であるかが十分見えていたのである。余談になるが今回版画〔図34〕や素描を見て,孤雁が日本髪に如何に執着していたかを再認識した。当時髪は女性の命と言われていたが,妻を姿ることができなかった孤雁の心情が髪へのこだわりを通して伝わってくるようである。今までも述べてきたが,孤雁はいわゆる創作版画に興味が無かったわけでない。愛知県美術館には,孤雁の「立てる女」〔図35〕と題する制作年不詳の石膏原型が収蔵されている。この作品を見ていると創作版画の田中恭吉「生ふるもの去るもの」などと重なる視野を感ずる。創-387-

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