鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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橋゜はうすん④ 『方寸』(羅馬字•特別漫画号)と北原白秋の初期詩歌集の装禎・挿絵の新味1910(明治43)年7月に廃刊されるまで総数35冊が世に送り出された。そのなかの1909(明治42)年2月に刊行された『方寸』(羅馬字・特別漫画号)〔図l〕は,とくvヽ研究者:神奈川県立近代美術館主任学芸員『方寸』とローマ字明治末期に『方寸』という美術・文芸雑誌が三人の青年たちによって創刊された。石井柏亭,山本鼎,森田恒友という美術と文学を愛する若者たちであった。途中からこの雑誌発行に賛同した画家や文学者たちが参加してゆき,『方寸』は,その美術や文学への関心を若者の初々しい感性でとらえ,素直に表わしていく編集方針で,世間に好評をもって迎えられていった。また,創作版画の黎明期の活動の場として,多くの創作版画が紙面を飾ったことも忘れてはならない。1907(明治40)年5月に創刊され,に斬新な編集方針で当時の美術・文学界に反響を呼んだ。では,なぜ彼らはローマ字を使ったのか。そして,ローマ字の使用は,当時の美術界や文学界にどのような影響を与えたのだろうか。1905(明治38)年前後のローマ字ひろめ会の設立ならびにその普及活動によって,日本国内でのローマ字への関心が高まりを見せたことは,『方寸』のローマ字特集号と深くかかわりを持っている。ローマ字がハイカラな感じを与えたことは間違いないであろう。そのハイカラという言葉自体,明治30年頃に,洋行帰りや高襟着用をさすことから転じて文明の代名詞のように使われた流行語であった。本来は西洋かぶれを椰楡した言葉であったが,徐々に目新しくて洒落ていて,西洋的であるといった肯定的な意味でも使われるようになっていったようである。新しい感性を自分たちの雑誌に盛り込もうとしていた『方寸』の連中がローマ字表記に飛び付いたのも怪しむに当たらない。ただ,彼らがたんなる西洋かぶれの若者たちではなかったことに注意したい。ここでは明治末から大正初期にかけて活躍した『方寸』の人々がその雑誌を通して新味を打ち出そうとした活動の本意を探ってみたい。さらに「パンの会」の同胞であった北原白秋が当時『方寸』の人々と交流を深めながらも個性的な装禎・挿絵の世界を自分自身の詩歌集で模索していった過程も明らかにしてみた-30 -秀文

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