鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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いる大きさで感じられないからでなかろうか。俯厳図では,観者は絵の中に入って描かれた人を一人一人見ていく,そこには観者が一点に止まって見なければならないという約束はない。そのような世界では,手前の人も奥にいる人も本来の寸法で描かれる。そこには観者の目の動きや,心が絵の中に入り込んで一つ一つの人や物と直に対面して見て動き回る観者の移動する時間の流れさえも感じられる。勿論,遠近に拘らず画面中の重要なものを大きく描くという手法もある。また屏風などでは,平らに展示された状態で見ると逆遠近法で描かれているように見えても,実際に屏風を立てる仕様にするとそれらを見る距離と角度によって手前も奥も等寸に見える位置がある。例えば,「誰が袖図屏風」の衣桁の台は奥の方が大きく描かれている。間近に見たり,平らにして展示してある時はそう見えるが,屏風としての機能を為す形で一定の距離と角度をとって見ると不思議なことに台の前方と後方は同じ寸法に見える。ある位置からある視点で見ると,その物本来の姿と寸法が画面中に知覚できるというこの世界は,当時は暗黙の約束事になっていたのであろう。此の様な世界は人間のネ見覚調整能力が為せる業で,写真などでは写し取ることが出来ない様に思うがまだ実験したことがない。職人尽くし屏風の仏師たちの図では,描かれている仏像は形がねじれて何とも異様な形態となっている。この図では仏師が三人で彫刻しているが,それぞれの仏師が見ている世界をそれぞれの仏師の視野で描いてそれを一体にまとめようとの意図で描いてある。多視点からの再構成が事も無げになされている。江戸期までの日本の表現の一つの在り方に,本来認識されている姿を見る者にどのように暗黙の約束事の中で再認識させるかという遊びとも言える世界があったと考えられる。では,このような見方は江戸期末までで廃れたのであろうか。結果から言えば,然りとしか言い様がない。しかし,孤雁の「足芸」〔図41〕にその見方があると考える。以前から,頭部の異常な大きさに不審を抱いていた。蹴り揚げている柳樽の量感党と,頭部の量感覚の均衡をとるために頭部の髯を大きくしているのであろうかと考えていた。確かに,当時の女性の体の比率から考えても髯は大きすぎると感じる位置がある。しかし,見る位置を少し移動すると,それは緩和され気にならなくなる。見る位:置や角度で本来の姿が見え隠れするのは,江戸までの視覚遊びとも言える世界と共通している。今回の素描資料の中には,一般的な割合で写実的に描かれたものや,彫刻に感じた不思議なバランスの足芸の素描も残っている〔図42■45〕。孤雁が意図するしないに拘らず,「足芸」や「立てる女(三)」〔図46〕を制作した時の感覚が江戸末までの-390-

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