(1992年)ということになる。10」「新美術新聞」1995年8月11• 12日号),ここでいま一度敗戦直後の山田新一の行それが誰のどのような調査によるものか現時点では明らかではない。いずれにせよ本報告では,中川氏より提供を受けた資料の総体について今後もなお細かな検討が必要であることを認めた上で,このTBSリストを現時点での最も包括的な「中川リスト」として使用する。三つめは現在東京国立近代美術館が保管する戦争記録画のリスト(以下「東近美リストと呼ぶ)で,『東京国立近代美術館所蔵品目録水彩・素描書資料戦争記録画』(同館発行1992年)に収められているものを用いる。以上,各リストを作成年代順に整理し直せば,1946年の「山田リスト」作成後,米国に送致された作品群を探索して作成されたものが1967年の「中川リスト」であり,該作品群の返還を経て受け入れ先の機関が作成した所蔵品台帳が「東近美リスト」十五年戦争画の戦後処理をめぐる山田新一の行動のあらましは田中氏によりすでに紹介されているが(田中日佐夫「「戦争画」について一本当に考えねばならぬこと一動を整理しておこう。報告者が青木氏より提供された山田の手稿は計10編。執筆時期の内訳は文意から1946年のものが6編,1975年(頃)のものが4編と推測されるが,そのうち1946年の3編と1975年(頃)の1編が未完に終わっている。以下「」内は手稿からの引用。ただし引用源の説明は論旨に関わりがある範囲にとどめ,個々の引用がどの手稿によるものかは明記していない。敗戦直後,朝鮮軍報道部に出頭した山田は「記録画展」開催のため京城駅倉庫に集積されていた戦争画六十数点の処理について同部長長屋少将らより相談を受けた。焼却すべきとの意見に対し山田は隠匿保管を主張,けっきょく軍当局は問題の作品群の処理を山田に一任して京城を去ることになる。山田は,かねて親交のあった金仁承,朴泳善ら若干の韓国人美術家の協力の下,丸三日かかって開梱を終え,額縁・木枠からはずして巻いた画布群を「私が永年住馴れていたアトリエを朴泳善氏に譲渡することになつていたので,そこを第一秘匿場とし残余は信頼する数名の韓国人画家の家に分散」して預けたという。その年の10月末,山田は日本へ引き揚げた。帰国の後,山田は「京城に於る記録画処理の顛末を先輩の中でも最も親しい伊原宇三郎氏宛に私信で取り敢えず通知」した。明くる1946年の2月末から3月初め頃,京-411-
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